アヒンサ 1

アヒンサ 1
私は日本国から来た一個の巡礼者であります。私は三十余年以前に、日本国の仏教徒の一比丘としてインドに渡り、各地の仏蹟を巡礼致しました。なかんずく王舎城耆闍崛山は、私が不断に唱えておる南無妙法蓮華経の経典を八か年にわたって釈尊が説法したまえる霊場であり、またこの南無妙法蓮華経を仏滅後二千年を過ぎて末法と名ずくる悪世、闘諍堅固と名ずくる人類自滅の戦争の時代を救わんがために、釈尊がお弟子に付属されし霊場であります。
その付属を受けし仏弟子は時を隔て今より約七百年以前に日本国に生まれて、日蓮と名乗って南無妙法蓮華経を弘通しました。
私のためには王舎城耆闍崛山は仏蹟中の第一の仏蹟、聖地中の聖地であります。しかるに釈尊成道の地仏陀伽耶にも菩提樹あり大塔だあり、初転法輪の地鹿野苑にも古きダメク塔婆や新しき塔婆や学院が建てられました。御誕生地藍毘尼園も近来発掘され、宿院・博物館も建設されつつあり、ご入滅の拘尸那城にも古き塔婆があり、涅槃堂があり、新しき精舎・宿院が建てられてあります。近くナーランダも発掘が進み国際的大学も立ち博物館もあります。祇園精舎や霊鷲山のみはただ雑木林の中に荒廃するがままに放置してあります。
およそ一代聖教五十余年の説法の中においても、ひとり法華経は釈尊出世の本懐を説くとおおせられました。
その法華経の寿量品の中に釈尊自ら分明に、その処を指定して「常に霊鷲山に在り」と説かれてあります。この経文を拝見する時に、霊鷲山の荒廃は仏弟子として耐え難き悲しみであり、苦しみでもあります。なんとしてもこの霊鷲山を復興して「常にここに在って法を説く」とおおせられし金言を、髣髴として実現させぬばならぬと誓いました。

しかしながら微力にして遂に今日まで何も成就することも出来ませんでした。
しかるに去年六月中旬デリーにおいて核兵器反対集会がガンディー平和財団によって開催され、私もまた日本国より招待を受けて参加致しました。
その時、たまたま王舎城復興計画が発表されました。いよいよ霊鷲山が現代的荘厳をもって釈尊在世のご説法の昔を今日に移すことになりました。なんという感激でありましょう。私ひとりのみの感激ではありません。およそ法華経を読める各国の人々、ないし仏教を信ずる世界の人々のために限りなき感謝感激であります。
今晩、日印協会が主催されて私のためにこの歓迎会を開かれ、各位のご参列をいただいたことを深く歓喜いたします。この歓迎会の席において一言インドの諸君に訴えることを許していただきました。
私はインドについてインドの諸君にお話することはおこがましくも思われますけれども、インド独立の父マハトマ・ガンジー翁のお言葉を引用して、私の意見んに代えたいと思います。
今度、私がインドにまいりました理由は、その光栄ある王舎城耆闍崛山の復興の祭典に列席するというだけのことではありません。去年十月以来、中印国境線において紛争が起こり、ついに戦争行為にまで発展致しました。これに驚いて取るものも取り敢えずインドに渡り、一日も早く戦争を終結せしめインドの平和建設のために犬馬の労をとって奉仕せんがためであります。
「非暴力の信奉者が侵略者と自衛者とを区別することは、あえて差し控えるのみならず、かえってそれが義務でさえもある。しかして非暴力の態度をもって自衛者に味方し、結局、自己の生命をなげうって自衛者を救わんがために与えるであろう。彼の干渉は多分その勝敗を早く終結せしめ、闘争者たちの間に平和をもたらすことさえもある」(ガンディー翁『人類愛の律法』戦争目的について、一九三九年十月一六日)私も及ばず乍ら一個のアヒンサの信奉者として、中印国境紛争に関して奉仕したいと願うものであります。
(昭和三十八年頃)


霊鷲山

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