【信心】 天鼓六十年二月号
仏法修行に入るのに妨げになる疑いが三つ有る。その一つが己を疑う一なり。それは、自分は仏法に入る器でないと考えた時、もう仏法修行に入る道は無い。
自分より誰が仏法に入るんだ。仏法の道理が分かっても自己を疑えば。もう仏法修行には入られない。その次に、師を疑ふ、二なり。法を疑う,三なり。
此処に於いて一つも有れば、事、覆器に同じ。器を覆しておいて水を盛るのと同じ、急いで除き断って之を尽くさんのみ。云々。自己を疑うのが疑いの第一の誤り。第二に師を疑う、これが第二の誤り。そうすれば仏法に入る道は無い、私の御師匠様ももう一箇の御住職、お寺さんだった。私もお寺さんにするつもりだった、後、住職になってね、けれども兎に角出家させて頂いたから、私一生こんな自由な仕事が出来たのね。それで御師匠様は、御一代お寺さんであってもかまわない、毎年其処に御詣りしてお礼を申し上げる。御祖師様も道善房の為に報恩鈔を書かれた。
今度は法。法は、お題目を疑う、私らはお題目を持ったり、弘ろめたりしたって、弘まるもんじゃない。仕様がない、という様な事を考えとったら、そりゃ仕方がない。
お題目の弘まる時だ。その時に私らが自分で弘めるのでなくて、弘まる時に、弘まる姿の中に御題目を唱えておればいいんです。御題目が主。