日本山妙法寺 【我が一代】

日本山妙法寺と云う名は、私が海外に仏法を弘めた初めから付けました。

我が一代

昭和五十九年十月十一日 立正大学講堂・東京 (一〇〇歳)
本日は不思議な御縁で、私もここえ参ることができました。私は元の大崎の日蓮宗大学の時の第一期の学生であります。その頃から「大崎學報」とか云う雑誌を編纂して、少しずつ自分達で読んでおった。その私が、立正大学の初めの日蓮宗大学を卒業すると、「後もう少し勉強したい」と願いでましたが、大学院という組織になれば、私一人のために、そんなこともできないから、「どこかよその学校に行って学問して下さい」。それでやむをえず、よその大学の大学院の学生となって勉強いたしました。
そのために、初め浄土宗の大学院、これの中の課目に天台の【法華玄義】等がありました。それはよいけれども、また【往生要集】のなんのという、あちらの法門のもつかねばなりません。そんなことをして、とにかく卒業いたしました。しかし、その次にまた是非に古来、日本に伝わった仏教を習い伝えておきたいという希望から、出家の身として、いろいろ教えてくれる所、真言宗の大学、その他の所に習いに参りました。
さて国家の制度が、御坊様も兵隊に行かねばならぬ。私、それで兵隊に行ってきました。逃れる道がない。陸軍歩兵少尉であります。かくのごとくにして、たくさんの年月が経ちました。禅宗のお寺へも参りました。それから真言のお寺へも参りました。その他、個人の名僧・知識といわれる人も訪ねてまわりました。山の中も何もいといません。ただ笈を負うて書物を持って習ってまわりました。かくのごとくにして学問は、ほぼ習い得るだけ習いましたが、年が三十を過ぎます。
この上は衆生教化に働かなければならぬ。衆生教化をどう踏み出すか。我がことながら、これに毎日悩みました。一足踏み出し損なうと生涯の出家の方針が裏切られてしまう。何とか良い踏み出しをしたいと思いました。
少しものも覚えましたから、学校の先生、それから寺院の住職。寺院の住職は大崎の大学を卒業すると、すぐにその誘惑がかかりました。けれども私、出家の小僧さんの生活をする今の寺院の生活で、法を弘めるなどということはできない。
皆様方は、寺院に生活に入られたかも知れませんが、法を弘めるには、身を自由に位置に置かねばならない。檀家まわり、お葬式、お彼岸、こんな事でまわっておってよいものですか。今までに何を習って来たのか。こう思うて二、三年の間、学校でものを習うのと違って、我が身が人生の第一歩を踏み出すのに迷いまして、决定しきりません。命にかけて、これを決めたい、誤らざる人生の第一歩を踏み出したいと思いました。
まず第一に、近江の国の比良山の頂上に「八淵の滝」というのがあります。大理石の岩を崩して滝がかかります。その水がすぐにあふれて、次に流れますと、流れた水がまた、すぐに淵になります。かくのごとくにして、淵が八つできております。その頃、誰も行く人がなかったのですけど、私、そこで初めて、我が今後の生活のあり方を決めるために、滝壷で一週間御断食をして、生命を捨てる覚悟になりました。この滝の第一番の上の滝。秋彼岸でありましたが、そこに別に広場なんかありません。渦を巻く底しれない深い滝壷と、そのそばに、くだけた石英岩・砂利が少しあります。
一週間、休む時はその砂利のうえに座っておりました。かくのごとくにして死ぬかというと、とうとう滝壷で死にもせず、そんなら決まったかというと、決まりもしない。これは大変だけども、一週間たったから、その滝壷を下りました。そうしてそれからは、あちこちと、そんな滝にかかっては、我が身の運命を定めようとしました。
今はこんなにたくさん着飾っておりますが、その時は木綿のうすい肌着を一枚着て、蠟燭もなければ、電気もありません。真っ暗がりです。その中で滝に入ったり、あがったりっしておりますうちに、下は体温で、上は水がかかって、一枚の肌着に青黴(あおかび)がはえました。決まらないものは仕方がない。そこを下りる時に振り返りますと、そこに高い楼門があります。楼門に金文字で、「文武の両道 内敵を防ぐ」という八字があります。燦然と目に映りました。私一代の中で、内敵ー内輪から我が仏法が崩されましたが、外敵からは崩されません。
皆様も、これから大事をなさる時、「文武の両道」 「内敵」を防いでください。「内敵」の中の最後の問題は、我が五欲の執着であります。日蓮宗門を衰微沈滞させた原因が、ここにあるようであります。
「而も憍恣の心を生じ、放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちます。」(法華経如来寿量品第十六)
さて、それから先にまた、あちこちと巡るうちに、ようやく三十二歳の秋がせまりました。三十二歳は御祖師様の立教開宗の時、私は三十三歳にして自分の道を伝えに立つ。かくのごとく考えておりましたが、その時に能勢の妙見様に参りまして滝にかかると、今度は「桃尾の滝」というのがありました。天理教の町の上でありますが、そこに行って、もはやここを先途と決めねばならない。自分でその覚悟で、そこで一週間た滝にかかってお断食をしました。
そこにありました古い時代の小屋に寝泊りしました。そうして最後の日、夜もすがら御題目を唱えて法要を勤めております時、下からトントンと太鼓を撃って山道を上がって来る人がありました。何の変哲もない、一人の道を求める行者といいますか、出家でもない、そんな人であります。
俗人の出家の人が上がって来ますから、私わざわざ道に出てー夜中でありますー「あなたはどなたですか」とお尋ねいたしました。そしたら何の躊躇もなく「上行菩薩」と申します。驚きましたが、上行菩薩の衆生教化の道を学ぶことに致しました。背中に笈摺を背負っております。「笈摺の中に何がありますか」と聞くと「釈迦牟尼世尊を背負っております」そうして私が気が付きました時には、何の遠慮もなく私の前を通り過ぎて、向こうの山の手へ参ります。
そこで私の方針が決まりました。決めねばならない十一月の末であります。
皆様、私は一代その夢のようなことを信じて暮らして来ました。その跡を継ぐことが決まりますと、今まで習った真言も浄土も、その他の八宗の書物、奈良の法隆寺の勧学院で倶舎・唯識論を習いましたが、何もかも皆捨ててしまいました。
上行菩薩の跡を踏むことが決まった。やがてそこから奈良に出まして、奈良の信者の宅でまた、笈摺を作ってもらって、それに毛布の半切りと、コウモリ傘一本、こんな支度でまわりかけました。その時にまず京都の大本山の各御霊場をまわりました。いよいよそれもすみました。
それから上京いたしまして、衆生教化の第一歩を、日本国の東京の二重橋の前で座り込みまして、一週間のお断食をして御修行しておりました。おうすると警察が「お前はいつ帰るか」と。「帰りません。ここで一週間のお断食をして御祈念します」。「それでは一寸相談せにゃならん」。上の方と相談しました。ところがあたかも紀元節という祝日が中にやって来ますから、警視庁から「ここは、大勢の日本の文武の大官が参るのみならず、外国のお客様も参るから、おってはいかん」と追い立てられました。
衆生教化の始めは「数数見擯出」の第一歩であります。それでそのその旗を立てたまま、あの宮城のお堀の外を一週間まわりました。その時、私自らが書いた絵葉書があります。【毒鼓】という書物に残っております。警察官から叱られて、太鼓を叩いて宮城前に立つ姿であります。これが私の出発点。
これがすんで東京の信者のお宅に泊まっておりますと、昔の日蓮宗大学の同窓の人々が皆、先生になっておりましたが、私が大崎っを出て十年間、各宗を習い巡って最後、玄題旗を立てて歩く、変な一人のお千個寺になったことを聞きまして、「藤井君のやり方は、時期を半世紀間違えた」。そういう話です。
私は他に何も希望しませんけれども、私が学問、学問と次々に日本の古来の仏法を習いましたが、皆これを捨ててしまって、玄題旗一本立てて太鼓を撃って出たことに、大崎から一人くらいは「どうしたことか」と言うてくれる人があることを、実は期待しました。それがありません。
その点、大崎の日蓮宗大学につくづく愛想をつかしました。その大学は、寺の住職を育てる学校なんだ。そうして中の生活は、末法の時代とはいえ、一番手足の枷になる家庭生活。これでは、こういう人々は、こういう学校は、もう私の苦労して求めた道を共に行けない職業学校。
そうして田中智学、その他、立正佼成会、元御坊様があんな変な還俗をして、在家のままに行った。それではこの末法に、御祖師様の仏法を弘めるということも、到底不可能であります。
私は、この大崎の学校に愛想をつかし、大崎の同級生に愛想をつかしました。
それで、その後私は一度も大崎に便りをしません。我が母校でありますが、もはや、我が行く道とは違った学校と思いました。
御祖師様の御妙判によると、今や【西天開教】ということが実現せねばならない。その話は大崎にはありません。閻浮提内広宣流布が法華経の中の明文である。今そのことは大崎にはありません。こういう訳で【大崎學報】という雑誌を、その後一冊拝見しますと、御祖師様の御宗旨ではないと考えました。
私の夢みたものは、何も求めもせず、太鼓を撃ってまわることだ。今は西天開教を完成し、閻浮提内広宣流布の大願も、実現しつつあるようであります。
かくのごとく考えて、大崎は母校であり、【大崎學報】は、同窓会の各自の研究と信仰の発表であります。私はこれを我が道と違ったものと考えた。曽て手にいたしません。
私が大崎の卒業生であり、そうして何の障りもない同級生でありながら、あの諸君の【大崎學報】に一編の文章も載せたことがありません。縁が離れると、こんなふうになる。何千人大崎を出たはしりませんが、あの【西天開教】に間に合いましたか。閻浮提内広宣流布に間に合いましたか。
さてこれだけではすみません。もう一つ、古人の詩に「共に末法に生まれて師に会わず」という句があります。末法という時代は、正しい秩序も何も皆、壊して暴力、人殺しさえすれば、それで通る時代であります。
そこに行われる社会の相は醜悪・殺生。殺生も国家をあげてやっております。世界をあげて人殺しの方法を研究しております。これが末法の姿です。さてこれを救う道があるかというと、もう一つ考えねばならない。その道がどこにあるか、今。人は探しております。その時、私は、御祖師様から六百年遅れて、末法の時代に生まれました。
当時の仏教信仰は娑婆を厭い「厭離穢土・欣求浄土」という言葉で現されている。この娑婆世界は、どうにもならない悪い所、早く死んで極楽に行きたい。それには日蓮大聖人様は「そうでない。この国土こそ本土だ。濁っておるのは、人の心の間違いだ。この間違いを正すんだ。」「御釈迦様が、はるか末法に【三大秘宝】を残して、上行菩薩を再誕せしめ、弘められる」とあります。
今やこの法が弘まりつつあります。皆様方の目に見えるでっしょうか。仏教のないヨーロッパ、仏教のないアメリカに、どんどんと、本門の教主釈尊をまつる本尊の宝塔様が現れつつあります。「そんなことが今日、科学兵器の発達した今日、何か宝塔が建てば、それで科学兵器の災いをのがれるか」という疑問がありますけれども、この疑問に答えるものは、もはや理屈ではない。
「時のしからしむるのみ」その時に指導者として仏の使いが出ます。この人が弘めます。ところで、もう少し言いますと「日は東より西へ入る、日本の仏法、月氏へ返るべき瑞相なり」。御祖師様から六百年遅れたお蔭で、私はこの瑞相に先がけしました。
皆様も、今からインドで太鼓を撃てば西天開教となります。それからまた、御寺だけを作れば西天開教になるかのごとく考えると良くありません。
「日本の仏法、月氏へ返」時に、インドは広大な面積、人口をもって独立しました。その時、マハトマ・ガンジーは「日本の仏法の三大秘法をもって、インドの平和国家指導の基点にする」と言って、仏教復興を発願いたしました。
この時が、御祖師様の西天開教の日でありました。私、それに会いまして、その時にインドに参りました。

私は「行かなければいけない」と思いましたが、一人もついて行きません。日蓮宗からも、誰もついて来ません。その時に京都の大本山妙顕寺貫首・河合日辰猊下が、きれいな出家の風格を具えておりました。それでその中で育った三人の青年達が、西天開教について行きまして、一人はワルダのガンディーのおる塾に、一人はビルマの開教に、一人はランカの開教に、各各名声をふるいましたが、日蓮宗門からは、誰も出ないのはさておいて、日本山も、お寺があり、宝塔があり、それから家族があり、ついていけません。ついて行けないことは時をあやまりました。
(ここで主治医より中止の勧告があり、法話が中止されました)


八淵の滝

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