インド独立と仏教復興

インド独立と仏教復興
平和運動を最近しておりましてインデラ首相が困って、監獄に入れた、あのナラヤンという人がおります。
これは、政治家でありまして、ネールの後を継ぐ人だと、その頃、噂を聞いております。けれどもそれは、私らよりもちょっと年が下がるんであります。十ばかり年下であります。私は、ま、そんな人々とは余り親しくお話はしません。誰とも、ま、お話しません。とにかく一緒に暮らしておりました。それで私のする仕事は、塾の人々も信じてくれておりました。
それが為に、インドが独立すると一番先に、この、仏教復興と言う事を計画しました。サンチという所があります。そこに古いお釈迦様のお仏舎利塔があります。で、四大弟子のお仏舎利塔もあります。それもお仏舎利塔、塔であります。
それが阿育王の時代に建てられたと申します。そこに行きまして、指導者がインドに、独立方針をこれから決定します。平和主義を持ってインドは立たねばならない。その指導者となる教え、それはお釈迦様の教えを取らねばならぬ。それならば仏教をインドに復興しよう。こういうことを決議しております。
その波に乗って日本山もいよいよ今度はインドに仏教復興の仕事が出来るようになりました。もちろん他に仏教徒もおります。けれどもか私はそのインドの独立を祈念してガンディーの塾に居る内も、それから山を歩こうとも、街を歩こうとも、みんなお太鼓を撃って御題目を唱えて、インドの独立が出来ますようにお祈りしておりました。その心が通じました。金で売り買いするものでなくて、やっぱり大きい仕事が出来るのは、精神的な仕事であります。私、何も持って来ませんで、あんた方と一緒で、食べ物も有るやら無いやら、誠に、家も何もありゃあしません。そんな中に、日本山が今度は、インドの中心の問題を討論する時に、関係するようになりました。
私も日本に帰っておりましても、やっぱり電報で、あの原水爆、世界の原水爆禁止大会なんていうものを、インドで開きました。その時も私を日本から唯一招きました。参らねばなりません。参りました。
そんな事で、非常にこのインドの仏教復興には、ネール自身が委員長になって、仏教復興を志しました。その第一歩は、私が御祈念しておりました王舎城、そこから復興する。その中に、当時大蔵大臣を勤めたのが、今の首相のデサイであります。それとネールと私と三人。それに州政府、ビハールの王舎城のあります州の総理大臣、それから日本に駐在しておりました大使。日本の事を、ま、良く分かっておるつもりで、この五人が委員になりました。
王舎城の復興計画を始めました。それが一年しない先に、ネールは亡くなりました。それでデサイが今度は又、集会を開きまして、ネールは亡くなったけども、「わしが変わって、これからあの王舎城の復興を実現しなければいかん。どうすれば良いか」と言います。で、それはもう、皆んな私の発言を待つより外、仕方がありません。王舎城の復興は、霊鷲山の復興、あそこにお仏舎利塔を建てる。「そりゃあ良かろう」そういう計画を実現する事になりました。
そうして掛かりましたが、やっぱり、魔性と言うものは、面白いものです。その後、ビハール州は飢饉に見舞われて餓死する者が出ました。動物もですね随分と倒れました。
水が不足します。それで皆んな死んで行きます。そんな中に、御仏舎利塔を建てるなんていう事は出来ないと言う。集会、州の会議を開いて、反対します。首相も、その反対説についていく事になりました。そうすれば宝塔建立は出来ない。そこで、どうにかこれを、実現したいと思うて、デサイに話ました。そしたらデサイが、それは、インドのビハール州やインド政府に迷惑をかけずに、私が一人で建てると言う事を、「あんたが州政府に話して、そうしてこの事を実現せねばならない」そうすれば出来ます。で、デサイが作成しまして、私それに署名して州政府に送りました。で、州政府も、それならば、あの、日本山に建ててもらいますと、そう言いう事で、あの、宝塔を建てました。
その次に、また、「導利ケ丘」というという所へ、これは、阿育王がパトナ・ビハール州から、隣の国の、カリンガという国を征伐しまして、十万人もの人を殺しました。悲惨な姿を見まして、不殺生戒を保つ様になりました。そこも、大切な場所で、そこにも御仏舎利塔を建ててくれという。それは、州政府の総督が頼みました。それで建てました。

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