二十一世紀への予言 その2

二十一世紀への予言 その2
ところで、この鎌倉という所は日蓮大聖人様が一代の活動の宗教的ご使命を果たされた場所であります。
娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中にはこの片瀬のある鎌倉でありまあす。ここは恐ろしい場所である。鎌倉は何でもない海辺の村にすぎなかったのですけれども、源氏・平氏という者が武力をもって闘争を起こしました。日蓮大聖人様が「日本国に源平二氏と申す王の門守りの犬二匹候」と。この二匹の犬は門を守っておればよかったのですけれども、武力を持ち争います。犬は牙があって噛み合う。そして平氏の一門を壇ノ浦という海底に沈めてしまいました。源氏一門の犬だけが残りました。幕府政治の始まりはこの鎌倉。この鎌倉が始めは門守りの番犬の一種でありましたが、何事も力でやれるというので、ついに日本国の政権を掌握するようになりました。
そしてこの鎌倉で非情な悲劇を生みました。
第一、源頼朝の兄弟、平氏を滅ぼした兄弟がここでみな離れ離れになり、一人は修禅寺で殺され、一人はこの腰越より追放されました。平氏を滅ぼしたその武力はやがて我が身に返り九郎半官源義経は奥州の地に行き、わが兄弟殺されてしまいます。
これがそもそも鎌倉幕府の正体であります。わが子孫を永く政権の座に置くつもりでありました。しかし三代にして滅びております。武力をもって権力を収奪したその報いが次々に現れ、我が一族同士が殺し合いをします。これを見ても権力というものは人間生活の上に決してよいものではありません。権力を握ろうと「いざ鎌倉」と天下に号令しても、道徳的に人間が生活する上には最も禽獣以下の悲劇を作っております。それがどういうふうに国家の歴史の上に現れていくかというと、やがて戦国時代というものになる。
武力というものを用うれば結果は成功ではかくて自ら滅びます。「兵は凶器なり、用うべからず」軍隊は災いの元だ、これを用うれば必ず滅ぶと中国の人は教えてくれました。
今まで兵をもって天下に号令しょうと企てた人々の末路はみな滅びています。「周の代の七百年は文王の礼孝による」。国を鎮めようとすれば武力弾圧ではいけません。軍備拡張ではいけません。民の心が和らぐように育てていく。尊い人間の生活として禽獣に勝る喜びの世界を作っていかねばならない。人殺しをして自ら安穏に暮らそうという考えは成り立ちません。昔から歴史が教えております。この鎌倉に幕府を開いて、わが兄弟まで殺したり追放したりした、この源氏の末路は悲劇を見ております。私兵を用い軍備力を用いて生き永らえようとすることは不可能だということを示されました。
そこで、日蓮大聖人様がこの鎌倉の地を選んでご一代宗教的な活動をされました。それも人の心が濁りに濁ってきた時代、これを「末法」といいますが、この時代に救いの教えを初めて日本国から世界に広めねばならないと思われた。それが軍事政権の鎌倉にたいする闘争となりました。幕府を諫められます。これを「諫言」という。三度、諫められました。そして三度とも大難を受けております。時の幕府の執権は北条九代の中でも名宰相といわれた北条時頼(最明寺殿)、北条時宗(相摸守殿)でありましたけれども、この日蓮大聖人様の立正安国の宗教的な平和建設の方策を用うることはできませんでした。衝突、暴力の前には非暴力が挫かれたようになります。首の座に従容として引かれていきました。「日蓮は今夜頸切られへまかるなり、この数年が間願いつる事これなり」と覚悟をしておりました。
武力政治というものが、時の名君であってもなお一人のご出家に対してこういう所業を後世に残しました。これに対し日蓮大聖人様はこの日本国の政治の乱れの源になった鎌倉、頸の座に引かれた鎌倉を「寂光土ともいふべきか」と。すなわち「娑婆即寂光土」。この世界を変えて喜びの天地に作り変えるという、頸を切られに行く道中で自ら土地の名を付けられました。娑婆世界の中には日本国、日本国の中には相模の国、相模の国の中には片瀬であります。「日連が命を留め置く事は、寂光土ともいふべきか」
日蓮宗の教えは死んでからお浄土に参る話ではありません。天国に行く話でもありません。
この娑婆世界にお浄土を作らねがならない。「お浄土」とは武力で勝つことでなく、非暴力には敗北がありません。日蓮大聖人様は頸の座につかれたから負けたのでありません。これで勝ったのであります。これで国土がお浄土に変わります。これが人間の社会生活の進歩の姿でしょう。正しいことをする。ただそれだけであります。これを教えるものが宗教、日本の仏法であります。
二十一世紀への予言 その3
今や世界はアメリカ合衆国とソビエト連邦の二つの国が中心になって、世界を戦乱の巷に変えようとしております。その戦乱も一人二人を斬り殺すとか刺し殺すというのではなく、この戦争は人類絶滅を想像させております。何のために人類は戦争をして死なねばならないのです。生きる道はどうしてないのですか。生きる道をもはや科学の上に求められない。今日の人類絶滅を源を作った核兵器。この開発が近代科学の先端をいった科学者が作り上げたもの。アインシュタインがその責任者であり、湯川秀樹もまたその責任者であります。
自ら人殺しの研究を発表した後、これは大変だからやめてくれといい、会議などをしきりに開いております。そんな科学者の会議をなんぼ開いても、この兵器をなくするわけにはいきません。戦争に使ったのは政治家だ、軍人だと言っております。
何もかもみな人殺しの道具になってしまいました。そこで世界人類は今何時まで生きられるかと、この核兵器の広まる姿から計算し、今世紀末までが生存する期間だろうという。この不安が遠い昔の予言書に出ておるといわれます。みなが何か不安を感じるから、そんな予言書などをにわかに引き出してみました。どれも二〇世紀で人類の予言書は終わっております。やはり死なねばならないのですか。
法華経の寿量品に「衆生劫尽きて大火に焼かるるとみる」、こう予言があります。もはや人類生存の時間は切れました。その時に大火が起こります。大火は大地の中から起こるのではなく、人間の研究室から起こります。この時に次に「我がこの土は安穏にして、天人常に充満する」とありますから、二一世紀に対するその予言ではありませんか。これを世界の人々は日本国の仏法の中に救いを求めようとしております。
「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も、我がこの土は安穏にして、天人常に充満する」その世界を日蓮大聖人様は作り出す使命を持って日本国に生まれなさいました。それは法華経が一閻浮提に広まる時、この時に世界を打ち乱す大闘争が起こる。それが今正に起こりつつある。これを鎮めるものがあります。どうするのですか。南無妙法蓮ど華経と天下万民一同が唱え奉る。「万民一同に、南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝を鳴らさず。天壌くれを砕かず」天変地妖が無くなります。異常気象、零下六〇度などと人間世界が寒くなるはずがない。その時に「現世安穏の証文、疑ひあるべからざるものなり」疑うなという。それを今、世界の人々が唱えております。
唱えてどうするのですか。本門の教主釈迦牟尼世尊を礼拝供養します。三代秘宝の法門であります。
この娑婆世界にはキリスト教もありますが、イエスの御舎利様を奉ったところはありません。マホメット教もあります。コーランは拝みますが、マホメットのお骨が衆生を利益する話は残っておりません。「八十御入滅、舎利を留て正像末を利益したまう」観心本尊鈔のご文であります。これが今、実現しております。ヨーロッパにもアメリカにも世界中いたるところに、この本門の教主釈尊をまつる御仏舎利塔建立ということが要求されました。日本山は今、各地のお弟子を派遣しております。スリーランカは仏法国でありますが、来年は三カ所の御仏舎利塔の落慶供養を頼まれております。日本国はまだ身延をはじめ池上も中山もどこにも本門の教主釈尊をまつるお仏舎利塔建立の機運が来ていないようであります。
「其の本尊の体たらく、本時の娑婆の上に、宝塔空に居し」この宝塔、何が入っておりますか。霊鷲山に現れた多宝如来の宝塔は、釈迦牟尼世尊のお舎利様以外の何ものでもありません。本門の教主釈尊とは八〇歳で御入滅遊ばされたその御釈迦様のお舎利であります。
死滅・減滅・滅度も衆生の迷いであります。お釈迦様は滅度しません。あのご真骨はそのままお釈迦様の本門寿量品の常住不滅の仏様であります。舎利身を現じて衆生を救われます。衆生の機縁が濁っておりますから、それで舎利身を示されます。
(昭和五十六年四月一日)

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