久遠実成の本仏
今朝はここでお勤めをいたしましたが、みんな初めての人で不思議な思いが起こったかも知れません。私も始めて楞伽(スリランカ)に参りまして、この前の道、向こうのお寺、学校でありますが、マリガカンダと申します。そこにお世話になりました。そして、仏様のお像が祀ってあるお堂があります。で、そこで私お勤めをしておりました。信者が詣って、皆んなこの御仏舎利塔に一番に詣ります。その次に菩提樹が植えてあります、菩提樹にもまた詣ります。それから今度やっと仏様のお堂のある所へ行って詣ります。
そこで、これは大変だなと思いましてよく考えてみました。で、菩提樹の下でお釈迦様が成道正覚遊ばされた、仏様に成られたということで、それを型どりまして、菩提樹の下にお釈迦様の居いでます、成道遊ばされるそのお姿を想像して拝むのですけれども、ここもこの菩提樹は、お釈迦様が成道正覚遊ばされたブッダガヤからわざわざ移して植えました。そうして、ここにお釈迦様のお像を祀りました。お釈迦様は、その菩提樹の影で成道正覚遊ばされたその昔を偲ぶのであります。
ところで、そのお釈迦様は拝むことはわかりますが、しかし、現在この菩提樹を拝みます。そこが考え方によりますと、諸仏崇拝、草やら木やら山やら川やらを拝むという、一種の野蛮な宗教のようにも考えられます。そこで、日本には木を拝む宗教もありません。そこで戸惑うたわけであります。けれども、不思議なことにあの私らが御題目を書いて拝む、まあこれには問題がありません。その中の妙法はわかります。蓮華というのは、あれは花であります。草木であります。妙法蓮華を拝みます。やっぱり蓮華を拝みます。草木成仏という法門があります。草も木もみんな仏様になります。仏様にならねばならない。お浄土の中の草であります。木であります。そう。
もうひとつ考えました。この天地宇宙の全体が尊いものでありますが、それを私らは仏様として認識します。久遠の本仏、始めから作ったの、作られたのというものでない、本来存在したもの。天地宇宙みな久遠本仏の一体の中の姿であります。私らの体に頭や髪があるの、手の指の爪があるの、あってその人一人の姿である。この天地宇宙が久遠実成の本仏のお姿で、それが草にも木にも人にも鳥にも十界に姿を現しております。皆尊いものです。
(昭和五十二年九月二十二日 コロンボ マハボディー)