世界平和と仏教徒の戦争責任 その4

世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その4

次に「まさか坊さん方は虐殺に加担はしなかったでしょうが、虐殺の跡始末を行ったのはこの僧団であった」と記してある。勇敢と虐殺、虐殺と跡始末、いかにも一連の連想が成り立つ。かくのごとく連想する人には日本山の平和運動も、迎合主義、無軌道無原則、恣意的仏教の解釈、畢竟して世を欺くものと見えるであろう。
日本山に対して戦争協力を問う者の目には、日本山の僧侶は、望遠鏡も拳銃も軍刀も短刀も携帯しておらぬ。いわゆる身に寸鉄を帯びない状態である。もし彼の僧侶が虐殺に加担したと想像するならば、団扇太鼓を撃つ「バチ」で叩き殺したことになるであろう。それ以外に虐殺の道具として何を想像されるであろうか。まさか兵隊の銃剣を借用したとは言わないであろう。
「虐殺の跡始末を行ったのはこの僧団であった」というのは事実である。この跡始末が戦争協力となり、戦争責任になるということが、厳正なる検討であろうか。この検討と反対に、この跡始末が、中国人の憤激を和らげる平和運動、とは評価されないものであろうか。
元来、大虐殺の屍体は面倒な手数をかけないように、大部分は揚子江の河に投げ込んで水葬した。
しかしその時の虐殺屍体は多く市中に散乱して、それを見る市民の感情はいよいよ悪化し激化するばかりであった。そこで紅卍字会会長が日本山の宿舎へ来て跡始末の協力を請うた。「先ず日本軍の許可を得なければならぬ。屍体を運搬収用して火葬しなければならぬ。それについて、日本の僧侶に葬式を頼みたい」と言うので、日本山は直ちに承諾して日本軍の許可を得、屍体を運搬収用して火葬した。
その後もしばしば火葬場を訪れて回向供養した。この跡始末が縁となって、南京の紅卍字会は日本山の仏事に積極的に協力するのみならず、自ら南京市中に御仏舎利塔建立の発願者となったのである。
しかし遂に宝塔湧現を見ることはできなかった。
丸山照雄先生は同書『宗教の可能性』中の第四項「死者と仏教」で、「虫けらのように扱われている人達こそが、実は命の尊さ人間の尊厳というものを、誰よりもよく知っている人々ではないかと私は思っています。死んだ後までも、どのような仕打ちを受けて来たか、仲間達の死を見るにつけて、死んでも死にきれないと考え続けてきた。仲間の葬式を見て初めて、これで安心して死ねる、というこの人達が現に生活しているのです。こういうことに立会いますと、自分が僧侶であることの責任を、非常に重く感ぜざるを得ないのです。」と書いてある。
この文章を拝見すれば、もし丸山先生が南京大虐殺の現場に居合わせられたならば「自分が僧侶であることの責任を、非常に重く感ぜ」られて虐殺屍体の跡始末をなされたのではあるまいか、と推察される。
そうならば先生自ら戦争協力者として反省し、その場の現状を報告するぐらいの業務を果たしていいのではないかと想われるが、いかがであろう。
南京城一番乗りをするということと、平和運動を行なうことが、本人達にとっては同一次元の問題であるのかもしれないけれども、しかし、第三者から見れば一つのものとは、どうしても考えられない。もしそれを一つのものとして説明するならば、時代への迎合としかいいようがないでしょう。
時代に迎合するためならば、南京城一番乗りもするし、平和運動もするということになってしまうでしょう。無軌道的で無原則的で、恣意的な仏教解釈というものが流布していく。そういう時代状況というものは、きわめて危険な兆候です。」・・・
日本山は時代に迎合するために恣意的な仏教解釈をして、戦争時代には南京城一番乗りもする、平和時代には平和運動の先端に立つ。こんな無軌道的、無原則的な言動は危険な時代状況の兆候である、という筋である。
御覧のように、日本山にとっては、南京城一番乗りも平和運動も同一次元の運動である。
戦争の災害を転じて佛国浄土を建設せんがための南京城一番乗りであった。引き続いて南京に掛錫中に佛国浄土建設の仕事としては、紫金山山麓の革命烈士記念塔に、御仏舎利を奉安したこと、紫金山上に玄旨本尊の石の宝塔を建立したこと、蒋介石および李宗仁の懇請に応じて御仏舎利を授与して彼らに起塔供養の誓願を発させたこと等を挙げることが出来る。
現在の平和運動と言っても、日本山は御仏舎利塔建立を目標として活動している。現在と南京戦時中と何ら変わったことはない。南京城一番乗りが勇敢なる行動なっるが故に、まさかであるが南京大虐殺加担の嫌疑もかかり、また屍体処理をもして直接戦争遂行のための活動をしたのをもって日本仏教徒の戦争責任の標本として日本山を非難された。
然るに、現在における日本山の活動には、南京城一番乗りよりも更に勇敢なる活動をしたと見る人もいる。
高瀬広居先生の『仏心(続)』に曰く、
昭和三十一年、東京都下、砂川で流血の基地拡張反対闘争がくりひろげられた。政府は安保条約と行政協定を楯に米空軍滑走路の延長を企て、強行しようとし、農民は土地収用に耐えられず抗議の闘いをいどんだのである。
その時、この農民の先頭に立ってはげしく太鼓を撃ちつづけ、「南無妙法蓮華経」の題目を絶唱する一群の黄衣の僧があった。僧たちは学生、労働者、社会党、共産党の人々よりも先に立って収用を強行する警察隊の前に立ちはだかった。警棒は容赦なく僧の肩を打ち、頭にふりおろされ彼らは黄色の袈裟と白衣とを血に染めて昏倒した。しかし、それでも黄衣の僧の群れは唱題しつづけ、暴力と化した警官に向かい礼拝することをやめなかった。
当時ジャーナリストだった私は、その凄惨な光景をカメラとマイクにおさめ世論に問うた。と同時にこの暴力に一歩もたじろぐことなく非暴力を以って立ち向かう一団の僧侶たちに深い感動を覚えた「いったい彼らの信仰とは何か、非暴力による軍事基地反対闘争の、そのエネルギーはどこから生まれてくるのか、
何故、腹を突かれ、足を蹴られ、血だらけになっても、彼らは闘いをやめないのか。」
その後、彼らの姿は、六〇年の安保闘争のデモ隊の中に、核兵器禁止の大衆行動のうちに、そして、成田空港強制代執行反対の激突の渦の中にも見られた。しかも、この僧たちは砂川の無縁墓地に宝塔を立て、成田三里塚にも宝塔を建立した。日本の宗教集団のうちでこれほど行動的で、明確な政治闘争の路線をあゆむ者は他に見られない。・・・と
南京城一番乗りは戦争最中だったが故に、勇敢と称せられた。日本山としては、こんなことを何ら勇敢などとは考えてもいなかった。また、砂川基地拡張反対闘争や、成田空港強制代執行反対闘争や、安保闘争、核兵器禁止大衆行動の中に在って撃鼓宣令したことは、平和時代の故に、高瀬広居先生の外には
誰も勇敢なる行動と認められた者はなかった。しかし日本山としては、平和時代の反対闘争こそ、真に勇敢なる行動であったと、自ら信じている。
この反対闘争には、日本仏教教団の人は、日蓮宗を始めとして、一人の僧侶も参加していない。
たまたま反対闘争に参加すれば「平和を語る資格はない」と言われ、「迎合主義、無軌道無原則、恣意的仏教の解釈」と非難される。
『法華経』勧持品には、
唯願はくば、慮ひしたまふべからず、佛の滅度の後、苦怖悪世の中に於いて、我等當に広く解くべし。諸の無知の人の、悪口罵詈等し、及び刀杖を加ふる者有らん、我等皆當に忍ぶべし。・・・
常に大衆に中に在って、我等を毀(そし)らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士、及び余の比丘衆に向かって、誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、外道の論議を説くと謂わん。我等、仏を敬うが故に、悉く是の諸悪を忍ばん。
とある。無知の人が日本山を、悪口罵詈等することも我等皆當に忍ぶべし、有智の学道が日本山を誹謗して我が悪を説いて、是れ邪見の人、迎合主義、恣意的に仏教の解釈する者と謂われても、我等、仏を敬うが故に、悉く是の諸悪を忍ばん。
戦争場裡の南京城一番乗りも、平和時代の砂川基地反対闘争も、世間はこれを認めて「勇敢」と称する。
法華経の弘通には、何よりも勇敢なることが要求される。日蓮大聖人は「日連が弟子檀那一人も臆し思はる可からず、乃至僅かの小島の主等がおどさんをおじては閻魔王の責めをば如何すべき」と厳訓された。
佐渡御書』に云く
当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなどり、正法の邪を恐る、諛臣(ゆしん)と申すはこれなり。強敵を伏して、始めて力士を知る。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人(かとうど)をなして、智者を失わん時は、獅子王の如くなる心を持てる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し。是れおごれるには非ず、正法を惜しむ心の強盛なるべし。
『法華経』見宝塔品に曰く
此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は、我即ち歓喜す、諸仏も亦然なり、是の如きの人は、諸仏の讃め給う処なり、是則ち勇猛なり、是則ち精進なり。

日本山の南京城一番乗りが、たとえ軍事行動に協力するという非難はあっても、また砂川基地反対闘争参加が迎合主義であるとの非難はあっても、とにかく、日本山は如何なる場合にも勇敢であった、という事実は一般に認められておる。これによって『法華経』を末法恐怖悪世の中に於いて「若し暫くも持つ者」
としての資格は保証される。悪王悪党悪政府が平和憲法に背き、国防と称して軍隊を作り、徒らに朝鮮の危機をかたり、米国の軍需市場をなすのに反対するがためには、「例せば、日本山が如し、是れおごれるには非ず、正法を惜しむ心の強盛なるべし」である。
・・・つづく

砂川米軍基地拡張反対闘争

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