仏教の平和的特性

スリーパーダの御仏舎利塔建立ということが、一つの土木事業のようでもありますけれども、これが、その仏様の不思議な力が、如来の秘密神通の力が加わりまして、わずかの工事でありますけれどもランカ政府の首脳を始めとして、一般民衆もみんな、驚きの目をもってながめているようであります。それで私が空港に到着いたしまして、一言ご挨拶をしましたら、それが幾度もラジオに放送されておるという事であります。それで、大統領に会見しましても、首相に会見しましても、みんな写真をとって新聞にも出したようであります。これは私はまあ、日本におって何もしませんけれど、どこからか集まって見えた人々の、青年達の仕事であります。別に大統領を関心させようと思ってなさったんでもないでしょうけれども、この仕事も不思議に仏様のお力が加わって、今は仏教国ランカの大きい注目の的となりました。
日本国でも、御仏舎利塔は建てましたけれども、誰もそんな何が建ったか知らずに済んでおります。インドにも御仏舎利塔を建てましたが、これはまあ政府の首相を始め、関心をもっておりましたけれども、一般は宗旨の違うヒンズー教と言うの、マホメット教と言うの、フィフィ教というのと言ってあまり興味を持ちません。工事の出来上がるまで誰もそんなもの知らずに通ってしまいました。
ネパールは御仏舎利塔を建てかけましたけれども、ヒンズー教の政権であり、ヒンズー教は仏教国を滅ぼして仏教徒をみな弾圧しまして、それでまた仏教が復興することを内心恐れて、宝塔を破壊したり、つまらん事をしました。今の、現代の時代において、政府が権力をもって純宗教的な建設を破壊するなどというようなことは、随分ヒンズー教の仏教に対する妬みであります。同時にまた、キリスト教なども、あのネパールに入っておりません。入れません。宗教的な偏見であります。偏見は所詮、最後には成功するものではありません。日本国も唯神を皇室を始めとして国家としてやって見ましたけれども、他の宗教を弾圧しました。耶蘇教を弾圧しました。仏教を弾圧しました。それで宗教的に偏見があると、やがてそれは、思想的に他の方から妬みを受け、憎しみを受けます。で、ここの困難があります。けれども、この困難を厭わずに仏教徒は仏教を弘めねばいけません。それは人の心を平和にする教え、どの宗教も、そのつもりでありましょうけれども、けどもみんな過不足で、足らなかったり過ぎたりしております。仏教が本当に信ぜられた国、そこの民衆の気分、これが仏教に勝る教えは、歴史上ありません。
日本国も、仏教が本当に信ぜられた時、その時に文化が栄え、一切の社会に波風が立たずに、殺人犯という者が一人も出なかった時代が、七十年も続きました。国の中にそれほど平和がみなぎる。世界に平和のこの教えを伝えねばいけません。そのために、今、ランカの仏教徒も結束してこれに仏教復興にあたれば、大きい力であります。それは、金儲けの仏教でもなければ、病気平癒の仏教でもなく、個人の幸福追求の仏教でもありません。仏様のお徳を慕っておみ足跡を拝むという事であります。礼拝忝敬します。何でもおばさん方が、みかんやら、お菓子やら、線香やら持って山の上に登って御供養いたします。仏様へ捧げるこの一念。仏様という救世主を見出しております。欲になると救世主が判りません。例えば、日本の創価学会みたいなもの。お釈迦様は迹仏だと、そんなことを言います。あなたは何です、池田大作本仏であります。そういう馬鹿なことを言う。その池田大作が本仏ならば、あとのご信者もみな本仏になります。そしてお釈迦様だけ迹仏で、一番下のほうへ下がらねばなりません。宗教の取り損ないは、そんなことになります。ここのランカの仏教はお釈迦様を礼拝供養する。それはできることでお花を拾って来てあげてみたり、それからローソクを焚いてみたり、線香をあげてみたりしておる。供養恭敬しております。これで仏法になり平和になります。その、誰が本仏かというようなことを考えて、凡夫が本仏、そしてお釈迦様が迹仏になってしまうと、有り難く無くなります。南無妙法蓮華経
昭和五十二年九月二十四日

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