原子力と人類の将来

原子力と人類の将来

此題号は去六月十二日、朝日新聞の学芸欄に、湯川秀樹が論説したる處、今此題号に就て特に人類の将来と云ふ問題を深く考へて見度いと思ふ。
秀樹曰く、「一、人間はできる事は何でもやつて見度いと云ふのが人間の本来的傾向である。ロケットの航續距離が延てくると、月や火星迄飛で行く計画が始まる、機械が発達すれば手足の働きを機械に代つてやらせる丈では満足しない頭の働き迄も機械にさせようとする。今日の電子計算器は人間とは比較にならない速さで、而もこみ入つた計算をやつてくれる」
抑々人間が母の胎内を出てから生長発育する順序を古来「這へば立て、立てぼ歩めの親心」と云ふ諺に由て表しておる、此は獨り親心の希望丈では無く一般嬰兄の本来的発育過程でもある。
人間はできそうな事を何でもやって見度いと云う傾向が、個人の生長ともなり、又社会の発達ともなることは真実である、併し人間が生長し社会が発達するにつれて、酒を飲む事も賭博に耽ける事も闘諍する事も、是又できる事でもあり、やつて見たい事でもある、されど妄に酒を飲み賭博に耽り闘諍する事は、個人の成長、社会の発達の為には数々弊害ともなる。そこで此種の事を禁止せねぼならなくなる、禁止せんが為には道徳律が先行せねぼならぬ。
それができる事でもありやつて見度い事であつても、それをやつてはならない事があり是を善と云ふ、又反対にそれを是非にやらねばならない事もある、是を悪と云ふ、又それをやつてもやらなくてもどちらでも差支無い事もある是を無記と云ふ、此善悪無記の三大分別は凡そ人間が社食生活を営む所には何れの時代に於ても何れの地域に於ても共通して行はれておる、是を彼等は社会通念と呼ぶ、此社会通念を集大成したるものが所謂道徳律であり、此道徳律を実践躬行したる者を聖賢君子と尊稗稱する。此道徳律を尊重し護持する時代は、個人も円満に完成し社会も健全に発達する、此道徳律を軽賎し嘲弄し破棄する時代は個人も堕落し社会も混乱する。暴力万能は其時代の特徴であり殺人破壊は其の時代の技術である。仏法の中に其時代相を、白法隠没、闘争堅固と説く。夫婦喧嘩や殺人は出奔ることでもあるけれども、現代の社会通念に由て多分に阻止されておる。
電子計算器や人工頭脳がどこまで発達しても、将来又は月世界旅行計画が実現しても、一般人類生活に別に喜びを輿ふるものでもなく不安を輿ふるものでもない、従て善でもなく悪でも無くどうでもよい中性無記の事柄に過ぎ無い、併ら高度の科学的技術は必ず殺人破壊に採用されつゝある事が現実である。そうすれぼ原子力を始め科学の発明の全てが悪魔的大罪を犯す人間の罪悪の淵源総府となる恐が多分にある、料率文明の呪はるゝ所以は此に在る。
現代国際間の戦争に於ては道徳律や宗教的禁戎の如きは何等の役にも立たぬ、道徳律や宗教的信念に固執する者は、国賊と呼ばれ刑罰を被る、結局戦争の終局の判決は唯勝敗の一点である、戦争をすれば勝たねぼならぬ、勝たんが為には相手の戦争能力を無くせんとして相手の軍隊をより多く殺害し負傷せしむる事が古来の戦争常識であつた、然るに第二次世界大戦の終末期に於て我広島・長崎に原子爆弾が投下さるゝに至つて、相手の最弱点たる老若男女を無差別に大量に一瞬に最も惨酷に、両も大規模に殺傷し都市を破壊する事に由て勝利を収むるアメリカの戦略爆撃と稱する戦法が行はれ、戦争形態も著しく変化せしめた、現代世界人類共通に戦争の最大恐怖感を持つものは是から始まつた。
一旦原爆使用に興味を覚えたるアメリカは終戦後にも愈々国力を挙げて原爆の製造蓄積に懸命であつた、去五月ビキニ島に於て実験せられたる水爆の威力、殺人カ、破壊力は廣島・長崎に炸裂したる原爆に比して凡そ五百倍にも相当すると云はれる、更に千倍万倍の威力を有する爆弾を製造する可能性を追求する方向に進んで巳まない、ひとりアメリカのみならず、ソ連も英国も亦倶に同一軌道を走つて居る、人間が出来る事は何でもやつて見度いと云ふ素朴な衝動に駈られて科学を進歩せしめたものゝ、其科挙進歩の絶頂に於て、人類生活に最大極度の不幸たる人類全滅文明総破壊の可能性が顕著になつて来た。
人類全滅の可能性を含む核兵器の凄惨なる災厄に封して、最驚愕―最恐怖―最後悔―最焦燥せる者は誰あろう是核兵器を発明し製造したる科学者の一国團であつた、先にはアインシュタイン晩年の述懐、近くは昨年七月九日パートランド、ラッセルの声明、同七月十五日、リンンドウ声明の如きは則ちその證左である。
此の如く世界著名の学者等が幾度痛切なる声明を発表しても、それに由て世界に核兵器使用の恐怖は一向に除かれそうも無い、何となればソ、米、英其他の両々三々の戦争財閥と、財閥に雇用される政治屋や.戦争職業人等は.核兵器の威力が一層大規模に最大量に且極端に惨酷ならん事を希望し誇張し快哉を叫んで居るが故である。
原爆投下を指令したるルーズベルト、及其未亡人、曾て進駐軍親指令官として日本に来たダグラス、マッカーサーにしても乃至一般アメサカ人にしても、彼等は我広島、長崎に於て彼等が行ひし人顆に封する大犯罪、大災害を見聞くとも、毫も後悔の色なきのみならず却つて原爆投下に由て戦争終結を速めたる効果があつたと云て寧ろ之を誇りとしておる。
「科学はどこ迄発達してもそれ白身道徳律とは為り得ない」と秀樹が云つた。
「科学者にとっては唯存在丈があり、意欲も評価も差異も無く又目的も無い」とアインシュタインが云つた。
科学も経済も政治も終戦も、総て現代文明は道徳律及び宗教的信念に封しては、或は対
立的であり或は批判的である、現代文明社会の暗黒面は則ち此に存する。
科学、経済、政治等現代文明の総てが其奉仕せんとする処は悉く世俗的価値である宗教道徳が総て厳重に抑制を加へたる五塵六欲の満足、剰部的快楽、世俗的幸福を無上に重宝がる為に、只徒に人間の努力は競ふて生産力を増大して人間の欲望を充足せしむれば、一切の社会悪は解消し現実の社会生活は直ちに楽園化すると云ふが如き唯物論的人生観を以て、真実の宗教道徳を否認し、反対に経済生産、更に交換手段の貨幣を地上の神として尊崇し奉仕し、此畸形的神體に信仰的熱情を傾くる、此の如くにして識らず識らずの間に人間の精神的傾倒が発生し栄華を誇る近代文明の社会が、一挙にして無間地獄の業火に焼き盡さるゝ危険に直面しつゝある、近代文明の二大寵兒、自由主義のアメリカと、共産主義のソ連とが、其何れも露骨なる權力的現実のみ有て、人間の理想の支柱、宗教道徳を尊敬する気風は全く見えない、アメリカの沖縄軍用地擴張、地代一括拂の強行、日本の軍事基地、砂川、小牧の強制収用等、ソ連の日本人捕虜の強制労働、戦争裁判等は、則ち自ら戦勝者と誇る最大野蛮人、人間から全精神問題を奪ひ去つた者のみの能く為し得る處である。彼等の体内に再び霊魂を呼戻させない限り、彼等が信仰する科挙技術、則ち原子力、経済政治の各方面からる遁るゝ道なき人類全滅の大火焰を焚付くるであろう。
彼の恐怖すべき原水爆戦争の惨禍は、科学文明の自己崩壊をもち来らす内面的暗黒の疾病を表現する苦悶である。
原水爆戦争は無道徳の社会生活を営む人間の為に下されたる天罰である。
原水爆戦争は無宗教の社会生活を営む人間が必定して堕落すべき大火坑である。
爰に於て秀樹は嘆息して曰く、
「此の様に考へてくると、我々は絶望的になりそうである、然し、我々は未だ絶望する必要はない、今日多くの人々に認められ信ぜらるゝに値する程の宗教や主義ならば、どれ一つとして人間相互の大量殺戮や、まして人類自滅の行為を肯定するやうなものは無い」
秀樹の絶望感は是正しく科学文明の末路、西洋文明、機械文明とも講せらるゝ近代文明を一括して葬り云らんとする弔ひの鐘の響である。科挙文明の一切合切は今日を限りに、人間の社会生活の指導位置から退陣せねぼならぬ、もしなほ科学文明が人間の社会生活を指導するならば、人類は富に自滅するより外に生きてゆくべき道は見出されないであろう。
科学文明に代つて廿世紀後半に登場して人類自滅の大惨禍を救ひ得るものは獨り我が宗教文明であると云ふ謹言は、彼の科学者が最後に発見したる超理論的結論である。救済の合理化や正当化を見出す必要がない現実直接の救済である。
近代文明の初頭に掲げられたる標語に、自由、平等、博愛、の三がある、此中博愛などは科学にも政治にも経済にも何所にも見当らなぃ、宗教道徳を否定する所に博愛のありやうがない、平等は多数人が少数支配者に封する自由の要求に外ならない、そこで現代文明の特色は只管自由に追及し自由を主張する処にある。科学も自由の制約から人類を解放せんとして発展し、政治も経済も総て自由主義の思潮に動かされたるものは、道徳、宗教の制約から解放されんことを主張した。自由の一言は道徳宗教已上の神聖なる金言とされた、凡そ自由と称する領域には善を作す自由は却て道徳宗教に連なる所以を以て影を潜め、悪を主張し悪業を為す自由が眞の自由の如く想はれた。是に於て道徳宗教の制約から解放されたる白由の増大とは、則ち人間界に罪意を増大せしむる詭弁に過ぎなかつた。
科学技術にしても、政治経済にしても、それは畢竟人間の希望目的に向つて使用されるものである。そこで人間の希望目的が道徳宗教の制約を遠離すれぼ遠離する程、唯動物的欲望、肉体的享楽、安易、遊堕、権力、名誉の追及耽溺のみとなる。
近代人が自ら文明人と称し、科学技術の力を誇る時、同時に其人は最大の野蛮への退歩となる危険に直面する、原水爆戦争は正に人類の戦争史上のみならず、世界生物の闘争史上の未曾有の野蛮状態の演出である。
娑婆世界の教主釈迦牟尼世尊、住昔中天竺摩阿陀国王舎城霊鷺山に於て妙法蓮華経を説法遊された、其中如来寿量品第十六に、遙に現代末法悪世の相と、其救済の門を説かれた。

「衆生劫尽きて、      大火に焼かるゝと見る時も
我此土は安穏にして    天人常に充満せり
園林諸の堂開       種々の賓を以て荘厳し
宝樹華果多くして     衆生の遊楽する所なり
諸天天鼓を撃て      常に諸の伎楽を作し
曼陀羅華を雨して     佛及大衆に散す
我が浄土は毀れざるに   而も衆は焼け尽きて
恐怖諸の苦悩       是の如き悉充満せりと見る」

此文の意は、人間が自ら人間全滅の惨禍を被る可き呪はしき時代を作つた。人間全滅の惨禍はノアの洪水に非ずして、無間地獄の大火炎が地上に燃え出て一切を焼尽くす魔の大火災であると予言せられたる経文である。世界を焼尽くす火炎が起るとは昨日迄誰も信ずる者は無かつた。今日の原水爆の新兵器は正にそれではあるまいか。
是の大火焼き尽くす惨禍を遁れ出る門は唯一門のみ開けておる。此天上地界水中の三界を総て殺人破壊の戦場と見る軍人政治家の邪見を排除して、反対に此国土世間を神聖なる本来の浄土と信じ、衆生の所作は人を楽しましむる遊欒となり、生産は園林堂閣種々の宝となり、浄土の教主大覚世尊と、聴聞の大衆と、其説法の金言とは等しく尊崇せられて、常に花を捧げ奉る荘厳なる道場となすべきである。此国土世間を離れずして、而も浄土の本質的実在を信じ、浄土教主の常住説法を信じ、浄土建立の菩薩行を行ふことは、則ち人間の為には究極にして根本的なる目標を輿ふる事である。人間をして内体的生存の現実から離るゝこと無く而も尊高無上の目標を探求せしめ之に到達せんが為に永の生命を予想して努力精進せしむるは是則ち宗教一般の活動である。妙法蓮華経如来寿量品に本師釈迦牟尼世尊の大悲誓願が説かれてあるのが是である。日く、
「毎に自ら是の念を作す、何を以てか衆生をして無上道に入り、速かに佛身を成就することを得せしめんと」
是が為に人生生活を価値ある行動を採用せしめんとして、消極的方則として大小種々の制戒を設定し、積極的方則として四弘誓願、六波羅蜜の法門を説かれた。左衛門尉殿御返事に日く、「有情の第一の財は命にすぎず、此を奪ふ者は必三途に堕つ、然れば輪王は十善の初には不殺生、佛の小乗経の始には五戒其始には不殺生、大乗梵網経の十重戒の始めには不殺生、法華経の寿量品は釈迦如来の不殺生戒の功徳に当て候品ぞかし、されば殺生をなす者は三世の諸佛に捨てられ六欲天も是を守る事なし」
現代の政治家達が若し此不殺生戒を客観的眞理でもあり、人間の神聖なる価値的行為でもあると信ずることが出来たならば、彼の原子兵器の如き殺人器を製造もせなかつたであろう。たとへ製造しても之を戦争には使用せなかつたであろう。又若し世間の人々が此不殺生戒を弊履の如く破り棄てなかつたならば、戦争製造者の策動の余地を無からしめたであろう。現代の救済は但此不殺生戒こそが超越的価値あるものであることを信受するより外には無い。秀樹も今更乍ら是に気がついた。気がついた不殺生戒の眞理を如何にして世間に認識せしめ共鳴せしむ可きか、そこに宗教的活動が始まらねばならぬ、科学の分野にはそれがない。
不殺生戒の眞理を軽しめ賎しめ破り棄てしめたるものは所謂邪見である。自由は競走を生み競走は優勝劣敗を生み優勝劣敗は弱肉強食の法則を人間の社会生活に導き入れ、殺人行為にも道徳的説明を興へ、戦争さへも宗教的色彩を以て鼓舞せらるゝに至つた。最近にも亦欧州十字軍などと称しておる、是に於て社会全体が血にまみれ戦争の火に焼かれねばならなくなる、此邪見の根底に科学が横つておる進化論と称するものは是である。仏法にては是を見濁と呼ぶ。科学文明がいかにして此不殺生戒を信受することができるであろうか。佛道を信受する者が質直にして意柔軟になつて平和の社会生活を営むことは当然である。日本国の聖徳皇太子以来奈良朝平安朝の末期迄の天下泰平の歴史は其證明である。此外佛道を信受せざる者、佛道を怨嫉する者、闘諍堅固の殺人鬼も亦仏法に由て質直にして意柔軟になり平和の社食会活を営ましめねばならぬ、現代要求する処の救済は此種の救済である。妙法蓮華経如来寿量品に日く、
「我常に道を行じ   道を行ぜざるを知て
度す可き処に随て  為に種々の法を説く」

所謂佛道を行ぜざる者好んで不殺生戒を破り布施波羅蜜をぜざる者をいかにして済度すべきか、観心本尊妙に日く、
「今末法の初、小を以て大を打ち權を以って宝を破り、東西共に失ひ天地顛倒せり、迹化の四依は隠れて現前せず、諸天其国を捨てゝ之を守護せず、此時地湧の菩薩始めて世に出現し、但だ妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ、因謗堕悪必由得益とは是也」
天地転倒は末法の姿である、「顛倒の衆生をして近しと雖も而も見ざらしむ」と説かれてあるが故に、真実の救済主たる宗教的教主を見失つて、本来市場の交換手段に過ぎなかつた貨幣を以て地上の神と崇め、却て金銭が人間を支配するかの如き顛倒現象を生じ結句金融資本主義の段階に至て、個人も国家も世界も金銀に縛られて自由を失ふ。日本国が米国に追随せざる可からざる所以も此金融資本の束縛を被つたが為である。勤労者は機械の奴隷となり資本家は利潤追求の奴隷となつた。文明社会の人間は総て奴隷となつた。文明の甘き酒は人間をして此顛倒の酔狂を生ぜしめた、現代文明が正に毒発悶乱して大地に蛇行する時となつた、此解毒剤として教主釈尊が末法に留め置かれたる良薬が則ち南無妙法蓮華経の五字七字である、法華経に日く、
「是の好き良薬を今留めて此に在く、汝等取て服すべし 差えじと憂ふる事勿れ」
不殺生戒をも持たず、布施をも行せず、但南無妙法蓮華経と口に唱ふる計りにて、いかでか我身が佛ともなり、此世界が浄土ともなることが出来ようか。是は誰にでも当然起る疑問である。此疑問に対する解答は、但だ口に南無妙法蓮華経と唱ふる事のみである。口に南無妙法蓮華経と唱へざる者には耳に南無妙法蓮華経を聞かしむる事である。口を閉ぢて南無妙法蓮華経を唱へず耳を塞いで南無妙法蓮華経を聞かざる者の為にも大慈大悲懈倦なく恒に南無妙法蓮華経を且つ唱へ且つ聞かせねぼならぬ、曹谷入道許御書に日く、
「今は既に末法に入て在世結縁の者は漸々に衰微して權実の二機皆悉尽きぬ、彼の不軽菩薩末法に出現して毒鼓を撃たしむるの時也」
南無妙法蓮華経の声、大法の鼓の音は、文明中毒の衆生は之を嫌ふて却て毒薬の想を為すが故に南無妙法蓮華経を誹謗し法鼓の音を軽賤する、御題目を唱へ法鼓を撃つ者を怨嫉して罵詈打擲する、法華経の行者に対する三類の強敵は、忽然して此所に競ひ起こる、三類の強敵を忍んで毒鼓を撃つ者は尋常ならざる大慈悲心を要する、高祖日蓮大聖人の御慈悲廣大なるが故に我身に南無妙法蓮華経を唱ふる事が出来た。教主釈尊の大慈悲に由ればこそ如来の因行果徳の二法を妙法五字の言葉に裏んで末代幼稚に掛けて頂いた。
是は我宗教的信念である、繹迦牟尼世尊の金口の梵音声が此姿婆世界に於て一切衆生の為にいかに広大にして永遠の年月に亘て救済を施したるかは邪見外道も争ふ余地は有るまい。
今日なお朝昏経文誦持の声は家々の佛壇に傳って民衆精神生活の平和の指針となつておる。釈尊一代五十年説法の中の終窮究竟の説法、三世諸佛出世の本懐と称せられたる妙法蓮華経の五字、いかでか末代五濁転倒の精紳病を全治せしむる事能はざる可き。是好良薬の功能も鮮明であり、人間の転倒症状の診断も的中し、末代救済の御使四依の菩薩の出現も紛ふ方なく出現し給ふた。南無妙法蓮華経の此一言の声が現代文明崩壊を救ふ可き唯一の人間世界への約束である。
不殺生戎も布施波羅蜜も其條項を掲げた文では人を救ひ世を救ふ事は出来ない。それだけでは宛も法律の條文と大差は無い。不殺生戒も布施波羅蜜も元来形式的の拘束ではなくして精神的な活動である、是を戒體と呼ぶ。戒體を無表色とも無作とも称するは是が為である。無表無作の戒體を発起せしめんが為に此身口意三業の作法表現を要する。
南無妙法蓮華経は三世諸佛の戒體である、法華経に「是名持戒」と説かれてある、南無妙法蓮華経は一切衆生成佛の戒體である「是人佛道に於て決定して疑有る事無し」と説かれてある。
「南無妙法蓮華経は文に非ず義に非だ一部の意のみ」と日蓮大聖人は説かれた。
本来常に自ら寂滅相の心の戒體に一言の秘要の法に結んで人間世界に付嘱せられたるものが則ち南無妙法蓮華経の表現である、南無妙法蓮華経の表色音声に由て南無妙法蓮華経の無表色の戒體のを發得するが故に、我等衆生の成佛も裟婆即寂光の開顕も信じて信ぜらるゝ所以である。
さて高度の科学技術も、科学技術を採用する自由主義と共産主義との政治も経済も、人間の自滅全滅を救ふ方法は、彼等が其主張する主義にも無く、其製造せる新兵器にも無い、是等近代文明から全然不必要と視られ、徒に過去の骨董として顧られ無かつた道徳律、道徳律の拘束し能はざる罪悪を転換し清浄化する宗教、其宗教的信念以外に人間の自滅を救ふ道は見出されない。
科学技術が原水爆を発明し、民主政治国が原水爆を戦争殺人に使用したる事に由て、人類界に於ける是非善悪の論議が忽世界の大間題となつた。
終戦後アメリカはインドの首相ネールを招いて講演を講ふた。ネールは其講演の中に、
「インドは大なる誇りを以てアメリカ国民に告げんと欲するものがある、則ちインドは原水爆を製造せず且又之を使用せないと云ふ事である」
原水爆装造と使用とは人間文明の大なる恥辱である、アメサカは永久に此恥辱を雪ぐことは出来ない、是が道徳律の批判である。
最近ソ連の最高会議は、原水爆実験禁止の日本国議会決議の要請に協調し支持する旨を発表した、続いて英国の首相も同様の意見を演説した。
アメリカの大統領候補スチーブンソンは数ヶ月已前に己にアメリカ自身が先づ原水爆実験禁止を断行して、ソ連英国を之に勧誘すべきであると馨明した。ひとりアメリカの現政府と日本の現政府とは未だ原水爆実験の功能を夢見ておる、実験禁止には不賛成である。
此の如く核兵器戦争の構想は、戦争の勝敗を超越したる道徳律と結合して居ることが判然した、道徳律は実践面の規則である、其規則を守るのも破るのも畢竟は人間の心の奥に潜む無表色の不殺生の戒體の活動に依るものである。道徳と宗教とは各別の領域に在り乍ら而もー体的な生命を保つておる事を知る可きである。宗教的信仰とは共産主義者の云ふが如き個人の一私事ではない、現代文明の暗黒を照らす大燈明である、宗教に由る罪悪の轉換の浄化とは、主義主張の優劣では無い、人間世界に行はるゝ悲劇の中の悲劇たる殺人罪の根本的禁断である、殺人罪の根本的禁断は科学も経済も政治も未だ曾て注意せなかつた処の人類究極の文明である。
殺人罪の根本的禁断は人類全滅を救はんが為に是非につけて採用せねぼならない政治経済科学の総面積に拡がる大問題である。
南無妙法蓮華経
日本山妙法寺 沙門  日達 惟時昭和卅一年太才丙申八月六日

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