仏足山入山に当たって (2)

仏足山入山に当たって (2)
この宝塔は、ランカの国には宝塔は村々毎に、そこもここもありますが、そうして古い阿育王時代の宝塔もありますが、それに肩を並べてこのランカ国民の信仰の中心になることでありましょう。庶民の信仰も、みんなここで、アヌラーダプーラに詣るよりも、ボロンナルワという、古い都の廃墟の跡を訪うよりも、今はみな仏足山に、国民は集まって来ているようであります。そこに、宝塔が涌現しました。
それが不思議として、外国のお坊様、それも経験の、土木の経験のない人、そんな人々が集まって建ててしまいました。兎に角も、ここまで来れば建ってしまいました。これは誠に不思議な、みな様方は自覚するとせざるとにかかわらず、この宝塔涌現のためには、不思議な因縁を負うて、この世に生まれてこられました。私のように、もう足も手もかなわなくなると、生まれてきておっても、拝むだけより他にできません。みんなは幸いにして、この宝塔涌現のために働ける人として、この世に生まれて見えました。
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一代のうちに、終戦後でありますけれども、百の宝塔を建てようと、発願しております。年のほうが早く老いくたびれて、まだ百は建ちません。百建つまで生きておるかもしれません。死んでも、ちっとも差し支えありません。この誓願はみんなが喜ぶことであり、仏法の興隆になることでありますれば、また足りないところを、もう一度ここへ生まれてきます。後に建てましょう。皆様方も次々に仏事をして下さい。
今人類が滅びると言うけれども、その恐怖を感ずるだけで、これを止める力は、どこにも見出されません。強いて見出せば人の心が、ものの命を取らない、不殺生戒を守りより他は、ないようであります。その不殺生戒は、精神的な誓いであります。この精神的な誓いを誓わせていただいたのが、お釈迦様であります。仏教であります。ものを殺すな。如来寿量品、寿量品であります。その寿量品は無量無辺とあります。それが尊いのであります。誰の命もみな無量無辺に伸びていけば、地獄ばかりにうろついているわけにはいきません。やがて仏様のお慈悲が、外から内から、自分の仏性が芽生えて来て、やがて無量の寿命の間に私らはまた仏様になります。
仏様になって見ると長い間が菩薩行であります。仏様になる道中であります。それはなんぼ長くても、差し支えありません。堕落しましても誤ちましても、それはあり得ることで仕方ない。それが結局仏様になる第一段第二段、そういうことになります。尊い道を見出さねばなりません。人を救う、世を救う、こういう仕事にかからねばなりません。大勢を頼む必要は有りません。自らの心一つ決心した時、そこに仏事が開けていきます。私はその経験をしました。
私、農学校で百姓をするはずでありました。百姓やめました。そして御題目を唱えることになりました。初めのうちはそうでもなくて、次第と情勢ー日本の情勢、世界の情勢が、転変してきました。その間にこの御題目の修行が、私の一代の大切な仕事であったことに気が付きました。それが今、米を作っておるよりも、それから何かお金を儲けておるよりも、余程、御題目を唱えておったことが、良かったようであります。これから先、私の唱えた御題目が人類のために、どんなにか大きい利益を施します。そんなことは、誰も信じないかもしれません。私一人信じております。
(昭和五十二年九月二十三日 仏足山)

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