西天開教日誌

徒弟来る八日の開粥に桃の缶詰を買わんという、予曰く、断食修行は、深山幽谷、或いは、懸崖、飛瀑、人煙絶えたる所にてつとめ来りしが、いつしか堂内となり、中日の梅湯となり、寝たるに床に伏し、寒さには暖房す、修行完了すれば、一切の不味悉く変じて、好味となる、一適の水に八功徳を識り、一飯の米に三徳を獲るなるべし。妄りに銭を散じて好味を求むること顛倒の増長なるべし、修行も結句、修行せざらんに如し。
中略
男子と生まれ出家となり、日蓮大聖人の御弟子となって、果報無上の身を持ちながらも神昏暗鈍、十軍魔王に障えられて、正法光顕の力量もなく、過ぎし一生の屍の捨て所を探して、今日此の所に参りました。
中略
もし私にして、この法滅の現場に直面したならば、みずから死を急ぐよりほかにどの道もとらなかったでしょう。
中略
インド内地の事情に精通することが、肝要であります、俸給か手当か、旅費か、それぞれ準備された範囲でインド旅行をすることは何の奇特も有りそうにも思えませぬ。いわゆる名誉の一等国民が徒らに漫遊したというだけに過ぎませぬ。
一管の竹をたよりに五天竺をうろうろしている人の胸の中に何が潜んでおりましょうか。私は日本の将来のため何の職業でもなく、何の事務でもなく、何所から金銭を貰うのでもなくして、万国を放浪する青年の輩出を希望して止みません。金銭をやよりにして動いている者は、金銭以上の何事も為し得ないのであります。
中略
旅は忍辱の修行の道場であります。
中略
釈迦牟尼佛は菩提樹下で成道され衆生教化の旅に出られます。最初に誰を教化すべきか、、、、、愛想をつかして幣れわらじのように、ふり捨てた五人の人達の跡を追って愛想つかされた釈迦牟尼佛は請待も受けないのに、みずから進んで五比丘の許へ訪ねておいでになりました。大慈悲の前には、いかなる屈辱も忘れねばなりませぬ。

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