顕仏未来記(内相承)

顕仏未来記(内相承)
只今拝みました顕仏未来記と申します御妙判は、御祖師様が仏様のお説きなさった法華経の中に、未来の仏様が亡くなられた後の世の事が指図されてあります。それを書き現したと言う題号の意味であります。これは弘長元年伊豆の伊東に御祖師様が流罪せられました。その伊東の所で流罪の間にお認めなさいました。
その未来記の中に、お釈迦様が法華経をお説き遊ばされた。これが始まりであります。その次に天台大師は支那の漢土に生まれられましてお釈迦様の教えに従って法華宗をたすけて漢土に弘めて居る。この法華宗をたすけて漢土に弘めたと言う事が、宗と言うものは中心を示すものであります。お釈迦様の一代の教えの中心が法華経による所から法華宗と申します。このその次に日本の伝教大師。比叡山の一家は漢土の天台大師に受け継いで法華宗をたすけてこれを日本に弘めたと言う。これは天台大師のお言葉でありまして、それをそのまま引かれます。そうしますと法華宗と法華経を中心にした仏教と言うものは、お釈迦様に始まって漢土の天台大師は支那に弘め、日本の伝教大師は又法華宗を日本に弘められました。これで三国三師になります。インドのお釈迦様、それに漢土の天台大師、それから日本の伝教大師、三国三師になります。そこで日蓮聖人様が、又自ら恐らくは、安房の国に生まれた日連は、三師に次いで法華宗を弘めて日本国に弘めるとか、漢土に弘めるとか仰言って居りません。「末法に弘通す」と書いてあります。末法と言うのはお釈迦様が亡くなられた後二千年を過ぎて後の時期、末法万年。その末法の時代に法華宗を弘める。国は指してありませんが、これは一閻浮提に弘めると言う事になります。一閻浮提と言えば世界中のことであります。世界中に末法万年の宗教として法華宗を弘める。で、お釈迦様が天台大師、伝教大師に続いて日蓮聖人自ら加わって三カ国の中の法華宗の同志が出来ます。三に一を加えて三国四師となる。仏教の受け継ぎ方であります。これがお釈迦様に始まって天台大師、それから伝教大師、その次に日蓮聖人。
後の人はその宗旨をお釈迦様の宗旨でない宗旨を弘めました。それは弘法大師にしましても、大日如来なんて言うものを作り上げてそうしてお釈迦様をのけものにして仕舞いました。無明の神力などと、お釈迦様は迷った人間である、そんな事申します。そうすれば仏教ではありません。仏教と言う広大な素質を利用して、外道の宗旨を作った。
南無阿弥陀仏も仏教の様であります。けれどもお釈迦様を頼んで助けていただくのではなくて、お釈迦様を捨てて極楽西方の方へ行きます。そして阿弥陀様に助けて貰うと言う。これもお釈迦様の仏法から出て、お釈迦様を捨てて外の者を拝んでおります。これで正しい仏法ではない。こう法華宗を中心にした日蓮聖人様が仰言います。
法華宗はお釈迦様の御誠諦を明らかにします。如来寿量品、如来の秘密神通の力、それを説かれた。それを仏法を説かれたお釈迦様の誓願救済、神通力が説かれてあります。阿弥陀の話でもなければ、大日如来の話でもない、不動様でも何でもありません。そうした時にこのお釈迦様の教えが末法の世に弘まる。それは世界中に弘まる。漢土とか日本とか国土を制限しません。弘まる時間はお釈迦様が亡くなられて二千年以後。そうして後万年の後までもこれが宗教としてお釈迦様の宗教として伝わって、そこに日蓮聖人様が自らの道を仏教の上に、仏教を弘める上に、お釈迦様を中心にしたお釈迦様の仏教、それを四人よりだしてお釈迦様に始まって天台大師、漢土の天台、日本の伝教、そして又日本ですけれど日蓮聖人、これを三国四師となる。四人の導師があります。けれどもこれもお釈迦様の南無妙法蓮華経というこの宗旨を立てられました上からは、外相承と申します。内心の相承では、天台大師から相承したのでもなければ、伝教大師から受け継がれたものでもない。日蓮聖人独自に受け継がれた。これを内相承と申します。それは日蓮聖人、上行菩薩という法華経の如来神力品に出てみえます、その上行菩薩に受け継がれました。上行菩薩は、お釈迦様からこの南無妙法蓮華経を付属された。末法の時代にこの南無妙法蓮華経を弘めよと言う付属されたというような事が法華経の如来神力品に出ております。
そこでその南無妙法蓮華経は日蓮聖人直接、上行菩薩から受け継がれましたけれども、上行菩薩と言うのは、今はどこにも居りません。お経文の上に見えて居りますだけであります。それで上行菩薩を通してお釈迦様から直接南無妙法蓮華経を受け継がれました。それは法華経の如来神力品という御経によってそう定められました。これを内相承と申します。それで日蓮聖人様の仏教は何よりも南無妙法蓮華経を唱える事、これが伝教大師でもなく、それから天台大師でもなく、日蓮聖人独自にお釈迦様から直接受け継がれた法門、これは内相承と申します。南無妙法蓮華経は簡単に誰でも唱えられるから、容易い宗旨の様に考えられます。そうではありません。仏様の末法を救う末法の衆生を救うただ一つの宗教としての南無妙法蓮華経。それを弘めるのに特別の菩薩を呼びいだされて、お経文では授けられております。けれどもその上行菩薩は、人間世界に今現れて来ません。上行菩薩は人間界に現れた時に、南無妙法蓮華経を弘めます。お釈迦様の御経の本懐、そうして末法の一切成仏の大道。それが南無妙法蓮華経という。
幸いにしてこの大法に御縁がありました。けれども、地湧の菩薩の出現にあらずんば唱え難き題目なり、とあります。この南無妙法蓮華経を唱え、南無妙法蓮華経を持って行く事は地湧の菩薩、お釈迦様の過去世遠い昔からの御弟子が末法に生まれてこの御題目を皆に伝える、この時には凡夫の姿を示します。凡夫の姿を示しながら凡夫の中で南無妙法蓮華経を弘め、それは畜生を救う時には畜生の姿を示し、さまざま形はうけ変えられて衆生を救われます。その中に南無妙法蓮華経を末法の時代、今日に弘める者は上行菩薩を上首として、六万恒沙の眷属と言いますが、恒沙のガンジス河の砂の数、あれが六万の恒沙を合わせた程の御弟子が付いております。その人々が様々な形を変えて、末法の時代に人間界に生まれて、南無妙法蓮華経を弘める。そう云う事であります。
(昭和五十二年九月三十日 仏足山)

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