アヒンサ 2

アヒンサ 2
欧州文明の華々しいネオンサインの中に近代国家と称するものが現れた。かくのごとき強大なる国家群が地上に続々と現れては、彼等は羊の如く柔和に、小鳥の群れのごとく明朗に、共存共栄する道理はない。
国家自衛のためにと言って、一切の学問技術はすべて殺人破壊の研究に向けられ、強大なる国家の特権として極端なる殺人破壊の手段が採用されつつある。それは原水爆と称する核兵器の競争・実験・使用、その他の核兵器の発明である。核兵器の実験による被害がいかに多くの人類に災害を与えつつあるかを知って、民衆は大挙して反対を叫べども、かの強大国は馬耳東風と聞き流して、ますます人類一般に危険を与うる程度を深めつつある。
かくのごとき近代諸国家群は、自ら好んで「反宗教」を標榜する国家もある。共産主義諸国はすなわちそれである。しかざる国家といえども、国防自衛の唯一の基本となる時に、これと反対する不殺生・非暴力を教うる宗教は、国家の方針とは完全に分離されねばならない。かくて近代国家はいずれも無宗教化されてしまった。近代国家とは自衛の名を借りる殺人破壊の大集団にほかならない。
アヒンサ(不殺生・非暴力)は元来、宗教の根本原理である。近代国家が無宗教・反宗教なるときに、アヒンサを国家の基本方針として、国際問題なかんずく外敵の侵略というがごとき、それはどこにも起こり、いつでも起こりつつある、現実の恐ろしき新天地に採用することは出来ない。この時インドは果たしていかがすべきであろうか。
一般国民はもちろん國家の指導者達も、個人としては信心深く宗教的倫理体系を認めながら、ことひとたび国家の行政・外交問題となっては、宗教的信仰は閑却され、国防自衛の手段としては、全然無視されておる。ここにおいて平和なる市民も紡車(チャルカ)を捨てて銃剣をとり、いまだかって牛馬をさえも殺さなかった青年が、もって他の人間を撃つようになった。実に現代の悲劇である。
近代国家の防衛と称するものは、今日、核兵器の時代においては直ちに人類自滅の終着点に向かって暴走しつつある。しかもこの危険を抑止すべき制動器は現代文明の中には何処にも見出されない。
しかるに人類はいたづらに自滅せんがために努力しておるものではない。人類自滅の暴走を抑止すべき制動器は、古来、多くの聖賢・諸仏・菩薩たちによって到るところに簡単に備えつけられた。これを宗教と呼んで人類は信奉し随順して自滅の災害を免れてきた。
宗教の根本原理は、個人の道徳的生活の基準を示すと同時に、さらに広く社会的・国家的、ないし世界的に発展し繁栄すべき方向・目標を与えた。仏教においては個人的倫理体系を毘奈耶奈と名づけ、または小乗宗という。社会的・国家的、ないし世界的発展法則を摩訶耶奈と名づけ、または大乗という。

大乗に指示する究極目標は、個人的には成仏往生といい、世界的には寂光浄土という。現実を離れずして現実から飛躍する。
人類進化の究極目標は、進化論には少しも指示されていない。現代科学が目標なくして、みだりに進化発展するところに危険がある。
かの無数の巨大なる怪獣、恐竜の類は、自己保存のためにみだりに進化し発展して、かの恐るべき無敵の武器暴力を作り出して、これによって自ら亡び去った。今日、猛獣毒蛇の類が次第に地上からその醜き姿を消しつつある所以も、彼らがみだりに進化発展せしめたる自己の武器の災いによる。
しかるに他方、その身に何ら自己防衛の武器うを持たない人間が今日地上に繁栄しておるという現象は、これひとえにひとろり人類には宗教があったからである。人類は宗教の指示せる目標に到達せんがために、常に奮闘せしがゆえである。
もし人がアヒンサの法則を棄てて、単に暴力に頼って自己保存の手段を採用するならば、人類の自滅は必ずしも今日を待たずして刀槍を発見せし時に既に自滅し了ったであろう。しかもその危険を救いしものは、他の武器や暴力にあらずして、アヒンサの宗教的信念が人の心の中に威力を発揮せしがゆえである。
(昭和三十八年頃)


ガンディー

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