法華経修行の肝心

法華経修行の肝心

法華経修行の肝心は、不軽菩薩の但行礼拝の一行である。彼の礼拝の対象は、絵像でもなく、木像でもなく、諸仏諸天の尊像でもない、仏像でもなく、文字でもない。正しく悪世末法、闘諍言訟を事とする三毒強盛の悪人、増上慢の四衆であった。是等の人々を質直意柔軟なあらしめ、互いに礼拝讃嘆せしめざる限り、人間生活は到底安穏平和ではあり得ない。

不軽菩薩の一期の菩薩行は、殿堂をも作らず、仏像をも立てず、経文をも読まず、深義をも説かず、布施をも勧めず、戒行をも持たず、福祉事業をもせず、道に溢れる増上慢の四衆を見るや否や、其所へ駆けつけて但だ礼拝讃嘆の一行を行じた。礼拝讃嘆の一行こそ、よく闘諍言訟の大火炎を鎮め、増上慢の暴力を挫く。礼拝讃嘆は親友の間にも行われ、怨敵の間にも行われ、家庭の中にも行われる。広い世界に住む、いかなる人間社会にも、礼拝讃嘆の行はれざる処は無い、礼拝讃嘆は、法華経修行の肝心にして、又天下泰平の秘術である。

身に礼拝を行えば、口には讃嘆の言葉が出る、凡そ他人に対して身に礼拝を行じ、口に讃嘆しながら、心に軽慢することは出来ない。心に恭敬尊重の念が起こればこそ、身に礼拝が行われ、口に讃嘆の言葉が出る。悪世末法の増上慢の男女に斉しく恭敬尊重すべき本有の尊形が存在する事を信じ、之を礼拝讃嘆すべき事を教えたものが不軽品である。所謂る道徳哲学も、おしなべて善悪を差別する処には悪人礼拝の教えは無い。それは独り法華経の特色であり、善悪不二の妙法の修行であり、菩薩行の功徳である。されば古人も「心に不軽の解を懐き、口に不軽の言を作し、身に不軽の礼拝を作せ」と謂った。所詮法華経修行の肝心は、此の悪業煩悩の充満せる人間を即身成仏せしめ、此の娑婆世界を直ちに浄土化する事である。

昭和三十年八月二五日「是無智比丘」

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