チャルカとインド独立と御題目

チャルカとインド独立と御題目
お断食も大層安楽に大勢御修行して皆んな無事に成満しました。諸々の魔性も降伏することが出来たと思います。
今年は有難い年で、西天開教にかかりまして四十四年間インド・ネパール・ランカ・ビルマ等に法を弘めました。で、その中で最も力を入れたのがインドでありました。インドの仏教復興、これは、お釈迦様の八正成道の御霊地であります。しかし、英国の植民地になっておりました。その民衆が独立運動を起こしました。だいぶんと、何代か、弾圧の下に苦労しましたが、最後のマハトマ・ガンディーと申します。元、弁護士でありましたが、この人が独立運動の方法を武力や経済力や政治力に求めずに、宗教的な信念の上に、精神の上に、独立運動を成功させようと思いました。時の人は、そんな事は出来るものでない、そんな事を考えるのは真昼に夢を見たようなことだと、嘲りました。私はその独立運動の最中にまいりましたが、日本の総領事や大使に会いました。それから、インドで、綿花を買うとか、買わないとか言う様な混雑が起こりました。日本はインドから綿花を輸入しておりました。その売買の交渉に政府の高官が来まして、シムラという所で会合を開きました。勿論その時のお相手は、英国の官権でありました。そこえ私も参りまして、日本の高官達にお話しましたところ、みんな「そりゃ、あんたらガンディーの独立運動は面白い話だけども、そんな事が出来るものでない。で、又、英国もインドを手放しては経済的に建っていかない。どうしても、無理をしても何でもインドは英国の植民地として最後まで、これは、保留するでしょう」そういう話でありました。
世界中誰でも、非暴力で何をするかと言うと、糸紡ぎをする。これが独立運動だという。それから皆んな生活を自分で努めて質素にまかなって、自分で何でも食べる物も作っている、そんな事が独立運動。それはなかなか結構な話だけども、一方、これを占領して統治しておる英国が、「良い事をなさるから独立させましょう」とは言わない。これはどうもガンディーのお話は夢物語だと、皆そう言っておりました。それにガンディー一人だけ「私はなるほど皆んなの言う様に夢をみているんだ」という、「そうかも知れないが、しかし、世界の情勢をよく前途を見極めると、世界はやがて、私の夢の後を追って、みんな夢を見ねばならなくなるだろう。その第一歩はこのインドの独立。これが必ず、あの時を得て、時に当って成功する。天の神様の裁きは既に近づいた。必ずインドは独立する」と言う夢を見ております。
ガンディー翁はそんな事を言っておりました。真に夢物語であります。精神的なものでありますから大砲を買い込んだとか、軍艦を求めたとか、兵隊を作ったと言うんならば、独立運動もちょっとは成功するかもしれない。何も持たないで、そして皆んな自分で貧乏な生活を楽しんで、糸紡ぎを木綿糸を紡ぐ、私も真似ました。こうして、ひねってですね、最初は糸を綿から引き出す。その次にはちょとした箱の中に、木綿車の形をとった布を仕込んで、その車を回して糸を紡ぎます。そんな稽古をしました。糸紡ぎ。そこで私もガンディーに会って考えましたが、成程経済的にこれが成り立つか否かは問題、しかし、この独立をせねばならないという、この信念を国民全部に持たせる事はこの糸紡ぎが一番早い。貧乏な人が皆んな遊んでおる、仕事のない人達でありますが、これが皆んな糸を紡ぎます。綿はインド中に何処にでもある。それを皆んな紡げば難しい事ではありません。子供でも大人でもします。私は不調法で、あまり糸は紡げませんでした。けれども、これを紡いでおると興味深いものであります。一心にそれをやらないと糸は出て来ません。切れてしまいます。いわゆる三昧に入ります。なんの三昧か、独立運動の三昧であります。インドは我々は独立せねばならないという。この願いで糸を紡いでおりました。世の中に糸紡ぎの機械を発明した事も良い事でありましょうけれども、自分で糸紡ぎその結果がインドの政治革命となります。独立運動の完成になると聞きますと、どうもこれは夢でありましょうが、驚くべき奇跡であります。これで出来ると、ガンディーは申します。出来たらば大変で、けれども出来なくても別に恥ずかしい事ではありません。出来ると思うて糸を紡いでいる。どなたにも迷惑をかけません。こうした精神運動を見て来ましたが、私もこのインドの独立運動に興味を持ちました。そしてガンディーに合うて、それからガンディーの塾に留まって、糸紡ぎの稽古をしました。初め綿を作るであります。糸を紡ぐ様な指程の綿をこしらえます。それを作るのに弓みたいなもので、はたきやりました。それで私不調法で怪我をしました。親指の爪かなんかを少し起こしまして、そしたらニラベンという英国のペルシャ艦隊の司令官の娘が、やっぱりこちら来ておりましたが、ガンディーの独立運動に興味を持ちました。で、結婚も何もせずにガンディーの元に飛んで行きました。一生このインドで最後まで暮らしました。この人がガンディー翁の側におっていろいろお世話をしておりました。
私が怪我をしたと言って、大変だ。それからガンディーの所へ連れて行きました。この日本のお坊様怪我をしました。そしたらガンディーが「日本の兵隊は強いから泣かない様にしなさい。」そう言ってふざけておりました。「日本の兵隊さんは強い・強い」それで、私、頑張っておったのでしょう。やがてそれも治りました。こんな時から私は余念なく御題目を唱えておりました。何の事か、ちっとも皆んな判りません。ところがこのガンディー翁がですね。太鼓を撃つ様になりました。「そりゃあ日本の宗教運動って恐ろしく勇敢なものだ。こりゃあ私も太鼓を撃とう」と、そうして、「お祈りの言葉、これは素晴らしい言葉で私も習いましょう」南無妙法蓮華経を唱えてお太鼓を撃ち出しました。皆んなが呆れまして、「どうしたのか」と言う。私もどうしたのか知りません。本当にこの南無妙法蓮華経を唱えて太鼓を撃つ、なんの説明もない。私はガンディーの糸紡ぎが独立運動の御祈念として、必ず成功する事を信じたように、ガンディーはこのお太鼓を撃って御題目を唱える、この御祈念を又信じました。仏教復興の大運動として受け取りました。
そんな関係で始まりまして、大層ガンディー翁も私がその塾に居ることを喜びまして、私そこに入るについては、身ですね、随身嬢の居った部屋を空けて、ガンディーのすぐ隣ですけれども、そこへ入れてくれました。で、そこへ入りました。何も判りませんが朝からお昼、晩と三回、御祈念をしております。それに出ねばなりません。そうしたところが、一夜、お月様がきれいに窓から射し込みます。
で、月を見て色々感想に耽っておりますと、一夜ほとんど眠れずに過ぎてしまいました。夜明け方ちょっと眠りましたら、もう目を醒ますとお勤めが始まっておる時間であります。大変だと思って行きましたら、やがてお勤めを終わってしまいました。恥ずかしくて、失敗しましたと思ってこまりました。まず、そんな事何べんもありません。一片だけどうもちょっとお勤めに遅れました。お勤めの席に出ますと、あちらは、その頃はヒンズー教のお祈りであります。私も何か判りませんけど、判る言葉だけ向こうについて私も唱えております。こうして共に暮らしておりましたら、ある時に塾生がワルダで結婚式をあげました。私にそこえ出てくれという。ガンディー翁が主催するわけです。参りまして、飾りと言っても木の葉を取って門前にちょっと掛けてあっただけです。そうして席に着きました。その時でありましたか、ガンディー翁が私にインド語を習えと言う。習ったかと言う。「一・二・三」ガンディー翁が言いました。私に次を言えという。私が「四」と言うと、ヒンズー語で一・二・三・四を「四」と言いましたら、皆がどっと笑って、年寄り、若者揃って一・二・三・四の話をしておりました。ガンディー翁の独立運動の位置は、そんな所でありました。和やかに暮らしておりました。そうしておりました時に、一緒に最も親しく暮らしたその随身の人や、それから相談相手になっておった御弟子さん、ビホボッティ。これらも一緒に、私と年が前後しておりました、その人は未だに生きております。次第に年を考えまして、政界にはめったに出ません。
(昭和五十二年十一月四日 仏足山)

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