嘆行善院日財上人徳章
惟時昭和第十四太才己卯年十月十四日、行善院日財上人の為に荼毘の式典を挙ぐ。
上人は我が日本国の鎮めとして、東海に聳え立つ富士の御山の麗なる静岡市の一商家山村文治朗氏の嫡男として生まる。幼少にして家計豊かならぬを憂ひ、登校通学さえも廃して一意専心家運の挽回につとむ。或は双輪の自転車を走らせて日影傾く天城山の嶮難を昇降し、或は一身に貨物を負荷して暁ふかく街頭を奔走す。到る所の華客商店みな此少年の誠意に感じて信用日々に篤きを加え、家運漸く再び興らんとす。父母も歓喜して将来を楽しみ、市中町内の者も亦、歓喜して其成長を俟つ。
家は代々法華経の信心深く正法を随力演説して近隣の人々に正信を起さしめたりしかば、上人の此の如き家庭の雰囲気の中に自ら法華経の信仰に目覚めなんとす。時、偶々日本山妙法寺の草庵が市の近郊に建つに及び、松谷中佐の化導を被て日本山に参詣し、鼓を撃て妙法を唱ふるに至り、今生一期の方針を額定せんが為に一百日間の暁天日参を発願し、所願満足の朝ひそかに家を出て帝都に上り、日本山の帝都の道場として其名も吉祥寺の付近、三鷹村に開堂供養を営むの時、上人来り投じて俄に剃髪更衣の式を挙げんこと請う。時に昭和二年四月二十八日なり。
家族は驚いて今日上人に出家せられなば誰れか家運を救ふものぞと強いて上人出家の意を飜さしめんと欲し、町内近隣の有志は、家族に同情し相計って上京し、上人の手を捉り足を捕て強いて郷家に伴れ帰らんとせしかども、上人出家の意を微動だにせしむること能わず、手を空しく引き帰しぬ。是に於いて近隣親族咸く皆怨嗟して日本山妙法寺の化導を悪口して曰はく、日本山は一家族を滅亡せしむる宗教なりや、日本山は牢獄囹圄に入るの門なりや、日本山は正法の仮面を被れる乞食の集団なりや、等と罵りて冴へ瓦石を擲つことさへありき。
正法には、会ひ難く出家となること又復難し。上人は出家已来其身はたとひ静岡に到ることあれども、魔縁の競はんことを恐れて再び家に帰らずして、偏に仏道を精進し其功徳を父母に回向せんには如かずと願い給ひぬ。
上人出家の頃、予も亦た多くは帝都の道場に在り、日々相共に市中近郊を撃鼓宣令して立正安国の祈念を発さんと欲す。田無、調布の町、中野、堀ノ内等、希には多摩の御陵、池上本門寺等未だ知らぬ道を同行二人、三人にて終日経行し、或は仏前に法華経を読誦して如来の真文を拝す。やがて皇城祈念の為に市中牛込に家を借りて移り住むや家賃の支弁容易ならず、飲食の供養殆ど絶ふ。遠く飲店を尋ね廻りて、残飯を請ひ、或は焼薯屋に詣て薯の皮を請ひ、是等を包み帰って纔に露命を続くよすがとなしぬ。炎熱の日、風雨の夜、帰り来て包みを解けば残飯は殆ど糊の如くなりぬ。
毎日市中修行八、九時間経行したる疲労も忘れて、夏の夜の短かきにも、冬の夜の寒さにも同行の人皆床に臥して夢路を辿るの時、上人一人仏前に跪座して孤灯闇き所、手に法鼓を撃ち口に妙玄題を唱へ、低声小音に唱題三昧なり。此間、眼は法華経、御妙判に曝して一句一偈心肝に染めぬ。道心薄き者の一夜とても猶ほ堪え難き所なり。上人一期の宗学解了は実に斯くの如くにして無師独悟せるものなり。
大正天皇晩年、偶々葉山御用邸の御祈念に関して葉山法難に随身し、葉山、鎌倉、藤沢等の諸所の警察の留置所に展転手洗廻しに抑留せられし時、一死を決定して飲食ふたつながら断ち、唱題修行に余念無く従容として死の期を待てり。此法難に由て、親の勘気も町内の怨嫉も稍々寛ぎ、上人出家の功徳を随喜する所有るが如し。
上人天性温順の質、妄りに他と諍ふこと好まざれども、一旦正義正信を執っては、一切世間に畏るる所無く、特に官憲の不信横暴に対しては、獅子奮迅の勇猛を発せり。就中去る昭和十年の地久節奉祝行列に加わりて二重橋事件を起しぬ。決死の僧俗六十余名を率いて、かねて禁制せし警戒網を突破し正法祈念の威勢を示せり。
日本山妙法寺が高祖大聖人の御本意を継いで二重橋の前に御祈念を発してより已に十余年に及ぶ。此間、遠方辺地の行幸の都度、或は北海道に、或は西海道に、どこまでも影の形に添ふが如く、日本山の大衆を率いて凰輦に随ひ、玉体恙無かれかしと祈念せざることなかりき。往くに旅費無くしては数々行脚し、泊る舎なくしては毎に草に枕しぬと雖も一片の赤心燃ゆるが如く、万障の艱難を排して進まざること無かりき。
行幸啓の時は、凰輦の警護に当る者の間に遂に「日本山係り」と称する一斑を置き、警視庁の内に亦「日本山係」の一斑を置いて注意看視せしむるに至りぬ。是即ち勇猛なる反響なり。此外各地御用邸の在る所毎に必ず皆草庵を設けて常住不断に祈念を凝らせり。海外は且く措く、日本の関東地方の日本山妙法寺は概ね、皇室の御祈念の道場として湧現せるものなり。
上人の孝心は、やがて父を度して仏門に入らしめ、鴻の台に清浄なる道場を建てて、父をして安住せしめたり。上人の慈愛は親近する者を化導して仏道に入らしめたり。遠くは西天印度に開教せる者及び交戦地の支那各地に従軍せる日本山の徒弟、近くは関東地方の諸弟子達等、熟れも上人の化導を被れる者ならざるは無し。名声普聞衆所知識の人なりけり。徒弟を度すれども皆悉く開教の第一線に送りて上人の身辺には、人手少なく而も用件甚だ繁忙なり。
西天開教已来日本山に印刷部を設け毎月、西天の消息類を発刊し、或は時に応じて諸種の論説を出版せること既に十年に垂んとす。植字の校正に到るまで寸暇なき上人の手に拠らざるは無かりき。而も出版物の全部は非買品にして施本なり。出版に要する所の出費も亦皆上人の清浄なる護法心の変化なり。日本山妙法寺の法流を疏通せしむること、もし上人なかりせば殆ど望み絶えたる次第なりけり。此点上人の辛苦は予が尤も深く感謝する処なり。
上人文芸思想に豊なる人に非ず。文は拙、言は訥、字も亦多くを識らぬ人なり。しかれども予が在天十年の間、親族、知己、道友はさておき日本山の草庵に住する者、日本山の弟子檀那と称する者の中に於いて最も多く、最も詳らかに時々の消息法運の盛衰より慶弔の種々につけて消息したる者はげに上人なりき。尤も多忙なる上人は又、尤も多く消息せる人なりけり。
在天十年故郷の消息とし云へばいずれか懐しからざらむ。されど上人の如く懐しく心慰む消息は無かりけり。道の遠きに志の深く見ると是なり。最近、那須に静養すること凡そ一百ヶ日、其間、上人よりの消息も亦十余通に及ぶのみならず、其身親ら那須に来り訪ふこと前後三度なり。此外那須の随身の人々に対して消息せるもの数通あり。臨終五日まえにも長文の消息を認められたり。上人の文は上人の心のみ、此の心有るが故に即ち此文ありしなり。上人の消息は上人の説法なり。謙下の心を以て無上の法を演ぶ。間然する処無し。
昭和五年八月二十五日、予西天開教に旅立つや、人ことごとく云ふ、予在らざる後の日本山妙法寺の法運は、内地に於ては衰微すること無くんば幸なりと。然るに上人一張の鼓を撃て一人帝都に止まり立正安国の祈念を断絶せざらしめんことを誓ふ。爾来十年の間二重橋の祈念を一日たりとも欠くこと無く帝都市中の街頭修行も亦、一日たりとも欠く事無かりき。かくて日本山妙法寺の正義の赴く所を天下に光顕し日本山の基礎を額立せしめたり。
上人出家已来、三鷹、堀切、中野、鴻ノ台等近郊清閑の地に日本山の道場湧現せしかども、是等は何れも二重橋の祈念に便ならざるの所以を以て未だ曾て自ら止住せず。されば上人出家の一期は住むに家なき市中の放浪なりき。或時は割長屋の一室に、或時は物置の片隅に、或時は信者の家に同居して雨露を凌ぐこと実に十余年。若干の仏像、経巻太鼓等を護持し、幾十名かの弟子を率いて幾度展転移住するとも而も、王城祈念の便宜を失うことを欲せざりき。此間信者もあり不愍と云う者もありしかども、苟も上人の宿る処には毎に大法の鼓を撃つが為に心無き近隣の怨嫉を蒙り、追はれ追はれて其の居を移さざる可からざるに至りぬ。
去年予が帰朝するにあたりても市中になほ予の膝の容るるの道場すら無かりける。日本山の行持は、出家の生活にして、出家の生活は樹下石上、雲所無住の生涯なり。彼の寺門、殿堂の経営は、日本山の正義に非ること分明なり。寺院に止住する僧侶の多きに比して仏法はいよいよ衰微の穴に堕つるなるべし。
去年の春の彼岸に予が西天印度より帰朝するに当って始終随身給仕し、特に帝都に於ける仏事成弁を以ては自己の使命と覚り、毫も懈惓する所無し。予が今年の春の彼岸に再び帰朝して吉野山入るや又来て随身給仕せんとせしかども有待の依身数々病悩に倒れて起つこと能はざるに到て遂にやむを得ずして医師の治療を受け、苟も小康を得れば又直に仏事に奔走して静養の暇無し。
四月の下旬予が再び帝都に入りしかども予も亦病魔に悩まされ、穏田の仮寓に師弟二人枕を並べて臥し倶に医師を請して治療を受くるに到りぬ。七月八日予は遂に静養に託して那須の温泉に湯治せしかども上人は帝都に残りて仏事に精進し遂に病を癒すのひまなかりき。那須の随身の人々に対して消息せられたる中に、今年に入りて病患に罹りし数を自ら数えて、十二、三に及ぶとて、一々病名を誌されたり。
「一、助膜炎 二、腹膜炎 三、賢盂炎 四、腎臓炎 五、肪胱炎 六、神経痛 七、二転捻挫 八、吠傷 九、鼻孔加答児 十、急性胃腸加答児 十一、痔 十二、中耳炎」
自分で勘定して驚きました。或人が未だ活きて居ますかと云われたそうですが実に其通りです。それでも今度は死魔にとりつかれませぬ。起つ時に起たうと思ふております。起ちそこなって生命を永へても詮の無い事です。目と心臓と手丈が患はなかった事は有難い事です。又当分痛い思いをしなければならないかもしれませぬが、今度はそんなに酷い事は無いと思います。今年は病み年でせうから来年は病まないでせう。しかし今病気とかどうとかは余り考へませぬ。痛ければ痛いから早く治さうと思う丈の事です。起つ必要に応じて起ったらよいのですから、今年の内に渡天出来ればよいがとそれのみ思って居ます」已上
通身是れ病患、五体総て苦悩聚、只僅かに眼と手と心臓とのみが上人の為に病患を免れたりとて歓喜せられぬ。此の如き一身の大患重症の間に於て宛ら身の病患に関せざる者の如く只管病の重きを忘れ、死の迫るを忘れて只管長途の航海、西天に渡らん事をのみ念願し給えり。三障四魔も嬈すこと能はず、五鹿六欲も染まること能はざる大丈夫なり。
さあれ四大不調にして昏倒失神するも猶ほ安静休養の暇無く、繁忙重畳する時に人の寿命何の縁にてか永らへ得可き。
去月二十一日付の消息に云はく
「恩師猊下の御慈悲に逆ふやうで実に済みませんでしたけども、健康には留意して居りましたので冷水摩擦や岡崎博士の御指導の旨は守りました。謂はば無理と云ふのは暑気と豪雨の中の撃鼓宣令丈でありませうか。これらに一々気をつかって休んでは一体此仏事はどうなるでせうと思ふと恩師の御慈愛が解ら無い訳ではありませぬが、何卒我儘な此点丈が改める事が出来ませんのでありました。何卒特別の御慈悲に申て見逃し遊ばして頂き度ふございます。
十一日柏田師と二人倒れました。急性胃腸加答児であります。始は柏田師の方が重かったのですが、私は余病の併発となりまして遂に今日に至りました。四人の中二人迄倒れ、而も看護を要する為に御祈念は只の一人しか続けることが出来なくなりました。」
春の頃、高須国手上人を諫めて云はく、
上人今にして静養するに非んば仮令治療するとも其甲斐あるべからずと云はれしに、上人答えて、「たとひ治療の甲斐無かるべしと雖も而も静養する余閑なきを奈何にせん。仮令此仏事の為に倒るることありとも毫も悔る所無し。」と。かくの如くして国手も遂に其精進を止むこと能はざりき。況んや他の弟子檀那等の人々がいかに諫め止むればとて、本より随う気色だにもあることなかりき。
上人天寿を全ふすること能わず、帝都の仏事を完成すること能はずして猶は壮年の齢にして娑婆を去らせ給ひし因縁は疑ひも無く上人非常の精進の致す所ならずんばあらず。仏道精進して寿命を顧ず、是即我不愛身命、但惜無上道の心地なり。上人の寿命の短かきを慨かざる可からずと雖又上人の精進勇猛なるを学ばざる可からず。ああ、日本山の一門にして有為の法器は相ついでで皆少壮にして娑婆を去りぬ。慨く可きか喜ぶ可きか我それをこれを識らず。
上人去年発願して曰く、今度の支那事変に処して須く我が身命を棄てて国土の恩を報ずべし。然るに先年楞枷の比丘、比耶頼佗那上人より寄贈されたる仏舎利を以て帝都に広く塔を起てて供養を発さんと欲す。然れば此仏舎利を近衛公爵に奉って護持し供養し給はば、我此身を支那の戦乱流血の地に埋めて正法治国の因縁を結ばんと。予これを聞いて曰く、
近衛公に仏舎利を奉るはよし死を求むるには非なり。正法の行人には死魔の誘惑あり。我が事すでにに竟るの想を生じて残りの寿命を捨てさしむるなり。強いて死地を求む可きに非ざるなりと。
然るに今年の五月二十五日機縁純熟し近衛公爵の為に仏舎利分布の式を挙ぐることを得たるに迨んで上人一期の希願略ぼ満足せるが如し。此仏事の後旬日を出でずして支那の汪兆銘和平救国の大義を懐ひてひそかに日本に渡り近衛公爵を訪ふてこれを訴へ決定心を得たり。
上人是を以て偏に仏舎利分布の功徳現前せるものなりと称していよいよ大歓喜を生ぜられたり。是より上人は更に一歩を進めて帝都の仏事を興し如来の遺身舎利を尊重して鎮護国家の利生を施さんこと、彼の聖徳皇太子の佳例に倣はんと志し、病軀を策励して九月鴻ノ台の道場に詣で十七日間断食修行を勤め仏舎利奉迎の為に年内渡天の機運を促進せしめたり。
此断食は上人最後の修行なりしか、健康回復の希望は消えて衰弱のみ加わり忽ち病勢進みたりとは雖も断食中に信解品の父子相迎の深義を悟りて大歓喜を生じ、衰弱やや回復したる九月二十四日、那須の仮寓を訪ふて帝都の仏事開宣の為に植村刀自を伴ひ、京都の村雲尼公を訪ね、亜で渡天の許容を求めたり。
上人曰く、「幼少より無能なりしが偶々善智識に会ふて正法の中に出家修道することを得たり。譬えば、窮子辛苦して周く諸国を流れ遂に長者親父の門に詣れるが如し。皇城の祈念、街頭の修行型の如く日々退転なく勤め来たりといえども只是日本山の年中行事として勤めたるのみ。譬えば、窮子長者の舎に入て諸物を出入するが如し。
今日漸く、我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ等と誓ひし高祖大聖人の大誓願、応に我が身の誓願となりかはって、天下泰平の祈念の秘要建立の修行の日々其快爾謂ふ斗り無し。是れ全く善智識に会える幸慶なり。立正安国の誓願修行は我が無限の光明遍照界なり。譬ば窮子、長者、親父の一子となりて財宝無量求めずして自ら得たるが如し。」云云
十月十一日の晩景に予、前後四ヶ月目に帝都に入る駅頭に上人の影を見るべくして然も上人の影を見ず。上人の容態軽からざる為也。予は穏田の仮寓に入る。夜半忽ち上人の危篤を報ず、とかくして明くれば十月十二日高祖大聖人御入滅の霊地池上の御会式に詣で御通夜の修行に障無からしめんが為に、予も床に臥て薬を用ひけるが、上人の容態刻々変り行きて、遂に出る息は入る息を待たずなりぬとのしらせに驚き、直ちに車を藉て淀橋に赴きしが、此時遅く已に道場の中よりは臨終の御題目の、撃鼓の音に和して昌に起れり。
必死不治の病人のためには良薬も亦変じて毒となるならひなり。上人は自ら治病の手当も怠らざるのみならず、諸方の名医を尋ねて診療を受け一日も早く全快せしめんと藻掻かれしかども、其結果は遂に色好ならずして却て夭折の悲しみを招きぬ。一期の命数限有る所以のものか。最も肝心なる御祈念の責を負へる帝都、最も多忙多用なる帝都の僅かに二、三の随身の看護の裡に上人は遂に大患より大死に到りぬ。看護の人々己が身命に代えて上人を活かさんと務めたりし志もあわれ一抹の煙となりぬ。
思いきや、十年を経て偶々日本に帰り来るや、未だ少壮の齢の上人の為に臨終末期の水を汲まんとは。
上人逝て帝都の法運塞らんとす。上人逝て広宣流布の金言も忽ち疑を生ず可きに似たり。上人逝て日本山の正義応に隠没せんとす。法孤り弘まらず、これを弘むる人にあり、其の人今や無からんとす。噫、悲しい哉、痛まし哉、窓を打つ時雨の音も惨として上人の枕辺を囲む人の咽ぶ涙に和するが如し。
往昔弘安五年十月十二日は高祖日蓮大聖人武蔵国洗足郷多摩川の辺り、池上右ェ門の太夫、宗仲が家に入て御入滅遊ばされし御逮夜なり。爾来六百六十年遠近百万の人撃鼓唱題の声夜を徹して梵天に到る。
今年昭和十四年十月十二日は行善院日財上人、当時の王舎城たる東京の淀橋なる川崎信士の宅に於て老少不定の掟とこしえに世の無常を示しぬ。上人逝て日本の柱倒れなんとす、上人逝て日本の眼目失せなんとす、上人逝て日本の大船覆らんとす、上人逝て日本国は今日滞涙、滂沱、悲雨瀟々として無窮の憂愁を催ふす。
一切の大事の中に国の亡ぶるは一大事なり。日本国には近年頻りに三災七難競ひ起り内憂外患交々到るの時、上人涅槃に安住す可からず、速に上々品の寂光の往生を遂げ順臾に還り来て再び身を日域に受け、皇国日本に立正安国の祈念を唱導し、東方亜細亜の光明を揚げて、一天四海皆帰妙法の暁を期し世界万邦を挙げて通一仏土の大観を成就せしめ給はんことを。
昭和十四年太才己卯年十月十七日
日本山妙法寺 沙門 日 達 敬白