マハトマ・ガンジー翁と祈り(2)

それが近頃になりましてインドはいつも戦争ばかりしております。困ったことであります。最近、私はインドへまいりました。そしてガンディー翁の跡を継いでいるヴィノバという人に会いました。この人は私たちのことをよく知っていて、私に百姓のできるお坊さんをインドへ寄越して欲しいと頼まれました。
農業を指導して、お祈りをする人と言いましても、ちょっと見当たりません。
で、送れずにおります。そこで私は話ができませんからヴィノバに手紙を差し上げました。その中で私は「ガンディー翁が在世の頃は人が大勢集まる所では必ずお祈りがあった。それが最近ではなくなってしまった。」と言うことを書きました。ヴィノバはバラモンの出で、私も何度かお話しの席に出ました。
けれども、そこではいつもお祈りがなくてお話があります。
現代のインドにおいて最も大切であるべきこのお祈りが失われていることを、私は悲しく思いました。これは悲劇であります。仏様神様を拝むことが軽視され、代わりに黙祷なんていうことを採用して、お話の前に形式的に目よています。簡単でうおいようでありますが、この祈りが廃れてきた現象はよ喜ぶべきことではありません。
ここに今日のインドの間違いが兆しているのです。武力をもって戦争をやり、血を流して自分の言い分を通そうとしても、それは成功しません。こうした考えは、もはや西洋人や日本人と少しも変わりません。修羅根性であります。
この争いを食い止めていくのがお祈りです。仏様神様の前にまず謙虚な気分を作っていく。この肝心なことがインドにおいて廃れて来たことが、今日のように武器を取って事を解決仕様とする態度になっているのです。
ガンディー翁はお祈りをすればやがてインドは独立すると言いましたが、当時はほとんどの人が信じられなかったのです。いつも疑いをもっていました。亡くなったネルー首相がこれを信じきれなかった。インドは一兵も持ってはいけない。軍隊は絶対に置くべきでないと言うガンディー翁の意見に対し、ネルーさんは騒動が起きた時、それを鎮めるのに軍隊がなくては鎮める事が出来ない。お祈りをしていれば鎮まるなんていうことは信じられないと言って、結局、それでガンディー翁と意見が分かれてしまいました。
ガンディー翁の言葉を空論として、みんなはネルーさんの考えを支持しまた。
ところが軍隊と言うものは持ったが最後、どんどん大きくなって行きます。軍人はわがままになっていきます。日本でもそうでしたがインドも同じ事をやっております。最近のインドネシアが良い例です。軍隊が力を頼りに威張り始めると、とても手がつけられたものではありません。
人々は側にもよりつけられたものではありません。こうした気分になりますと必然的に戦が生じてきます。敵を侮り、自ら驕ります。こちらの言うことを聞けという気分になり、それを力で推し進めていきます。そして戦が絶えず、世の中が乱れていきます。
日本は戦に敗れました。しかし今また自衛をするんだと言って軍隊を養っております。自衛というのは戦を意味します。戦によって今日、国民が守られていくという事実は何処にも見当たりません。
ベトナム戦争でも一番大きな被害を受けているの者は、女・子供たちです。守られるべきはずの人々が一番多く殺されております。どこえ訴えようもなく泣き寝入りのほかしょうがない現状であります。戦が起これば国民は守られるのではなく、みんな殺されます。
武器を持たねば殺されるというなら、それで殺されればよいのです。拝んで殺されていかねがならない。祈っている者に爆を投下しません。相手も手を控えねばならなくなります。これが人間の文明というものであります。
人間はもはや戦争手段において行き詰まりました。これからは新たに生きていく道を求めねばなりません。それは平和の道を求めることです。国際的に平和を作っていくことです。政治家は平和を作らないで戦争を作ります。その政治家の創り得ない道を目指して、われわれは心の平和を作っていかねばなりません。これが我々国民一人一人の仕事です。
この力はやがて日本国の大きな力となり、世界の利益となっていきます。現代は人を殺すことが勝利となる時代ではありません。

浄心にわが心を信じ、仏様神様の存在を信じていく。無限の絶対の力を信じていく以外に、人類が救われる道はありません。平和に我が心を静めていく力、これが一人一人の中に宿るとき、真の世界平和は自ずと築かれていきます。
(昭和四〇年頃)


マハトマ・ガンジー翁

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