僧伽の生活

日本山の僧伽の今日の活計、自然に無住所の頭陀の遺法に応じたるを喜ぶ,彼の世間の無住者の謗り、浮浪人の汚名を厭う(いと)ことなかれ、仏法の面目、出家の本意は、かくのごとき汚名の下に伝来し護持せらるるものぞ、世間の汚名は出世間の高風なり、如来の遺風を伝持するものは、世間の屈辱を忍ぶべきなり、・・・・・・日本山の生活は、年中単依跣足にして、其の上に東方流伝の法衣を着る、日光を避けるに網代笠を用い、寒風を防ぐには、頭巾を用い、一鉢に代うるに頭陀袋を用うといえそも別に制限ない、ただ撃鼓宣令四方求法の便宜にしたがって、しばらくかくのごときの風をなすのみ。・・・・・・・
釈尊の仏法の久住不久住は、仏弟子の偏に(ひとえ)この頭陀苦行を行ずると、行ぜざるとにとるべしとなり。・・・・・・・・高祖大聖人の御一期は頭陀苦行の最第一なるものなり、衣は但三衣よりもなお薄く、蓑(みの)をき笠をかむって命を支う、食は一鉢とりもなお少なく、夏は草を食い、冬は雪を盛らせたまいぬ、住所は数々見擯出なり、草庵も焼かれ茅屋(かやや)も追われる、摩訶迦葉の頭陀苦行もまた遠く及ばざるところなり、末法の仏法、かくのごときの頭陀苦行の中に流布す、高祖大聖人の頭陀苦行のあと、今日ふたたび頭陀苦行の人なければ、本化付属の正法もようやく世に断絶せんとす、仏法の繁昌は、衣食住の繁昌とは反比例すればなり、法華経を如説に修行すれば、自然に行頭陀者の称嘆にそむかざることを得べし、かの世に諂う(へつら)て頭陀苦行を厭(きら)うもの、いかでか法華経の行者と称することを得べき、好衣、好食、好住所に貪着していかが法華経を弘通(ぐずう)することを得ん。・・・・・・・・十字街頭に往来して一念衣食住の煩悩にしたがわず、万人誹謗の中に在って而強毒之の鼓を撃つ、如来の使命を重んじ正法の流通を願って余念なし、かくのごときの人は、もろもろの頭陀苦行の人の中の真の頭陀苦行の行者なるべえし、行儀を見れば破戒のごとし、活計を見れば餓鬼道よりも乏し、世間の噂を聞けば、朝敵、国賊、強盗、殺人よりも、さらに悪名あり、かくの如きのなかに一期の寿命をかけ、三業の受持をつとむ、行頭陀者の称嘆、まことにもって相応すというべし、・・・・・・・・・その身は僧籍にあらずといえども能く仏法を伝持し、一人の所化なしといえども、なお人天の導師なり。・・・・・・・・思いきや、広宣流布の真実の唱導師はかの軽賎せられし非人乞食ならんとは、・・・・・・・・・・・僧伽の生活は、自ら耕さず、紡がず、千門万戸に往いて、飯食を乞うて、その生命を支える、乞食の生活は釈尊以来三国の流伝、凡そ、三千年に亘って、佛家の正命食法として行はれたものである。これは世間未曾有の生活法である。

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