世界平和と仏教徒の戦争責任 その2

世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その2

次に「調子いいことは、人に先んじて口にしてみる。あるいは迎合してみる。そして具合の悪いことは口をぬぐって黙否する。」云々と言われた。なる程それでは無規定的、無原則的で、恣意的な仏教解釈というものであろう。これを言い換えてみれば、戦争時代には戦争を礼讃したその口で、平和時代には平和を論議するということであろうか。
今日の平和時代には、日本山は平和に迎合して平和を論議して平和運動を行なっているが、戦争中には戦争に迎合して戦争に奔走し、戦争を礼讃した同一人にして、しかも時代に応じて、かくも反対の両極面に平然として自在に変節してよいものかと、糾弾されているようである。
ここでは身口意三業の中の口業に関する戦争責任を取りあげておる。口業は録音してないから今は消えてしまったが、文字として印刷された物は残っている。戦時中の日本山の印刷物で発刊停止を受けた物も多い。それら印刷物の中に、果たして日本山が戦争殺人に迎合した文章を見出されたであろうか。
不審 反対に調子の悪い時に口を拭わず、人に先んじて世論を批判し、戦争行為に反抗した文章を二三提示しよう。「兵は不祥の器なり」と題する文章に曰く、
皇道精神の宣布というて皇軍将兵八紘を蹂躙せんとす。燐邦近国は敢えて慴伏(しょうく)せざるものなし。妄りに軍事に従属すべからざる、かの教育宗教の如きも、又また皇軍将校の指導し企画する所となる。
神国観念は漸次、宗教的色彩を濃厚ならしめ、初めに神統天孫たる天皇を擬して現人神と呼び、次に天皇の統率する軍隊を呼ぶに神将神兵と言い、皇軍将兵の戦死者は、その尽忠報国の臨終の一念は崇高神聖なることを世に比倫なければ、是をことごとく祀って神となすべしと言う。
かくて苟(いやし)くも神社のほか皇軍のほか、天皇のほかに恭敬礼拝の対象を求むる者あらば、そは神国の人民というべからず、忠良の臣民となすべからず。
日本国は明治維新以来、外国に対して数数戦いて数々勝てり。戦うごとに勝たざることなし。数数戦うが故に、男子壮丁多くは天寿を全うすることを得ず、老幼婦人ことごとく疲労して衣食欠乏なり。数々勝つが故に将兵は驕って、ひそかに無敵を誇り、国民は戦争に慣れて青少年競うて殺生残害を職業となす。かの豚を殺し狗を殺すもの、すべて仏法の中には悪律儀として賓斥せられたるものなるに、こはまた昼夜を分かたず、ひたすら殺人奪命をもって名誉となす。
かの平和を主唱とする宗教道徳の如きに至りては、ただに現代に利益なきのみにあらず、また国家民族の発展に障りありと思い、これを軽賤憎嫉すること弊履よりもはなはだし。
詮ずる所は兵は鎮護国家の器にあらず、兵は不祥の器にして君子の器にあらず。有道の者の処らざるところなること、すでに論議の域をこえたるにあらずや。兵を讃美し、人を殺すを楽しむに至りて、我が国はたちまち神明仏陀の愛燐にはずれ、敗戦亡国の大患を招けるなり。
正法に背きたる国土に崇重せられて蹲踞するところの神社は、これ必ず悪鬼邪神ならざるはなし。
悪人を跳梁せしむる思想、良民を困厄せしむる社会は、これ必ず暗黒ならざるはなし。

この文は敗戦直後の著作であるが、敗戦亡国の原因を軍国主義にありと断じ、殺人戦争の行動を極めて非難している。

次に戦時中の「開光文」を抄録して、前後一貫した日本山の戦争反対の主張を示そう。大東亜戦争の当初「見たか戦果、知ったか底力」「何が何でも勝ち抜くぞ」「一億火の玉」「此の感激を増産へ」等々の標語を、悪筆大書して普天率土に撒布し、これ等の標語を放って、戦時下人心の指導原理と為し、以って一億一心ならしむることを得べしと謂り。
此の如きは道義を知らず、正法を聞かざる禽獣の叫喚に過ぎず。・・敵慨心を激発せしめんが為にとて、街巷店頭に漫画を掲げて憎悪せしめ、人形を立てて刺突せしむるが如きに至っては、児戯に類する呪詛、粗忽を極めたる迷信なり。正法正信無き者の作す所、愈愈出て益々識者の眉を顰めしむ。
善神国を捨て去り、聖人所を辞して帰らざるの所以なり。

軍人官僚に於いては更にも云わず。本来民衆の機関たる可き翼賛会の如きの指導文句を見るに、専ら無礼を事として言辞麁(そこう)を極む。
数々同胞の非を挙げて直ちに仇敵と称し、米英に比類し、これを大書して群集場裡に掲げし物、ただに二三のみに止まらずをや。是豈自界叛逆難の先相をなす者に非ずして何ぞや。一般民衆漸く溷廁(こんし)の臭きに狎れ(な)、店舗の売り子も輙く(たやす)顧客を罵り、路上の男女もまた総て柔軟の言辞を忘る。
乱世の音は激して怒る所以ものか。しかのみならず遍く国土に亡国の哀音有り。咽薀(えんうん)にして言うこと能わず、声を呑んで私に怨む。万民諸々の苦悩を受けて、一人の之を慰安せんとする者無し。土地として尺寸も可楽の処無きに非ずや。
この時一類慢心の学匠は、驕慢の鐘を建てて、乃公能く一世を指導すべしと謂い、言論文章盛んに報国の銘を打ち、邪智諂曲巧みに世を欺くと雖も、その為す所は強ちに仏教を破り、闘諍言諍訟を礼讃して因果を撥無し、一切世間の眼を失わしむ。
「開光文」は昭和一九年六月、東京渋谷神泉郷の日本山妙法寺に南無妙法蓮華経の玄題宝塔を建て、その開眼式の敬白文である。当時、侍従武官長の本庄繁大将が参詣された。当時は特高警察が暴威を振るい、憲兵もまた奔走した時代で、彼等がこの「開光文」を探し回って研究したようであった。
軍事行動反対の口業として、記憶するところを二三紹介しておく。

その一は満州国首都新京に於いて、二宮治重中将の斡旋で皇軍の首領達を集会した時、私は満州対策を演説した。「諸君がもし満州に永住しようと欲するならば、満人全体を殺害することが出来ない場合は諸君はことごとく、すべからく日本国に帰らねばならぬ。私は満人の皇軍に対する声を聞いたから、こう申し上げる」と。
此の演説は、皇軍首領達を激怒せしめた。直接私に危害は加えなかったけれも満州国に於ける日本山に関する一切の布教活動を弾圧した。
たとえば満州建国以来、笠木良明氏等を中心として五族協会を設立し、その会場の本尊として日蓮大聖人の大曼荼羅を奉安することになり、丁度その頃、西天印度に布教中の私にその執筆を依頼して来た。私は快諾し、数枚の大曼荼羅を拝写して笠木氏に贈った。それが満州の各大都市の協和会の本尊として祀られてあったが、この演説によって全部取り外され、私の許に送り返して来たのである。

その二は、皇軍が印度侵入策戦を始める前、岩畔参謀より軍人に似合わぬ丁重なる文字を以って、皇軍の印度作戦に対する私の意見を聞き、日本山の協力を求めたいという意味の手紙を吉野山で受け取った。
東京の山王ホテルに招待された私は、「英国が印度を侵略してから壱百有余年、今日、まさにその終末期に入り、全印度は独立自治を要求して起ち上がった。もし日本が軍事的に印度を侵略しても、目覚めたる印度を英国に代わって統治することは、五十年はおろか十年も無事に統治することは不可能であろう。日本は印度に兵を送るべきではない。印度はあ日本国を東洋の先進国として深く信頼しているから、日本国は平和的に印度の独立運動を援助し、友邦として交際すれば永く印度から感謝されるであろう」と話した。
喫煙しながらこれを傍聴していた若い参謀は煙草の吸殻を私に投げつけ、立ち上がって軍刀に手をかけた。岩畔大佐はこれを押し止め礼儀を崩さず、「御意見を拝聴して有難う存じます。しかし日本軍がもし印度作戦を行なうことになれば、日本山の御協力を頂けましょうか」と尋ねた。「もし印度作戦が行なわれる時には、私が従軍致しましょう」と答えた。
かくして軍部から、「御弟子四五名を従軍させて下さい」と注文されたので、丸山行遼師を主任として四五名従軍させた。丸山師は日本の南方軍総司令官である河辺正三大将に対面するや、「これから印度人に会ったならば、必ず日本軍は先ず合掌しなさい」と勧告した。しかし日本の軍隊には挙手注目の敬礼法が決まっている故、それは採用されなかった。因に、終戦後この河辺正三軍総司令官は、日本山の門に入って出家得度した。・・・・・つづく

タイトルとURLをコピーしました