----- 平和憲法を守る道 -----昭和四十一年五月三日 於 九段道場
教主釈尊が此の国を安穏に衆生の生活を喜びと楽しみとに充たしめんがためにとて制定遊ばれし不殺生戒を、今こそ人類は挙て信じ受け持たねばならない時代が到来したというわけであります。
いかなる理由にも拘泥せず、いかなる利害にも関係なく、ただ「人を殺さない」という宗教的信念のみが人類全滅を救う唯一の道であります。
理想的な日本国憲法
五月三日、今日は憲法の発布されました記念日に当ります。
この憲法は世界の現在の状態の中では、発布後のことはともかくも、最も理想的な平和をうたった憲法であります。
現在、人類の恐れや、悲しい運命はみな戦争がもたらしております。
それで、戦争をやめ、戦争権を放棄するという、こういう条項がこの憲法に定めてあります。これは実に世界のどこの国にも無い平和の憲法であります。これが現実の日本国において守られております。
軍隊が戦争をするようになる。
日本国民がこの戦争をやめることに反対するわけでもなければ、それかといって、高い軍事費用を負担することを喜ぶわけもありません。ところが政治というもののからくりで、国民は税金をとにかく収めますと収めた税金は、政府の軍隊を作る方面に役立てております。現在の自衛隊がそうであります。
この軍隊というものがあれば戦争をする道具でありますから、どうしても戦争をしないでおれません。軍隊が強ければ強いで戦争はしたくなれます。
アメリカが今どこの国においても、アフリカ・アジア・ラテンアメリカの各地に戦争を起しておりますが、これはアメリカが陰になり表になり、金と武器とをやれば戦争は出来るものと考えてやっております。日本にもこの金と武器とを援助して、自衛隊というものを作らせました。
軍隊は平和憲法の上からは作ってはならない
陸海空軍はすべて持たないという憲法の建前でありましたけれども、それが、日本国の治安を自力で維持する上には差しつかえないという解釈をしまして、それで自衛隊をつくりました。
作ってしまいますと、今度は今沖縄がアメリカのベトナム戦争の軍事基地になっておりますが、沖縄からアメリカはベトナムに兵隊を送ったり、弾薬を送ったりしております。その沖縄に日本の自衛隊を送るということを今の総理大臣は言い出しました。これはまことに危ないことであります。
これでは規則を作っても憲法を作ってもこれを守らねば、何にもならない空文であります。
印度の現状を見るに
近来印度が第二次世界大戦の終わりに独立しましたが、独立する時に戦争をせずに独立いたしました。
ガンディー翁は、印度が戦争をせずに独立しましたから、軍隊というものは、国家を治め、それから外国との交渉をする上には必要でないと、こういう意見を持って印度の国の将来を計画いたしましたが、ガンディー翁の亡くなりました後は思うようにいきません。軍隊が日日に増えるばかりでなく、次第とやはり近代的な装備をするようになりました。
印度は独立早々でありますために、軍備に費用が食われると国民は非常に生活が困窮に陥りまして、あの広い場所で、豊かな土地と天気に恵まれておりますが、それでいて食べるお米が無くて、飢えて死ぬというような事態が起こり、それが一人や二人でなく、何十万という沢山の者が飢えて死ぬというようなことになりました。
戦争は勝ちもせねば、負けたかも知れません。勝ってもたいしたところまで行きません。何の得るところもなくて国民はそのお蔭で飢えて死なねばならなくなります。
こんなことで印度もガンディー翁の信ずるように、印度こそ世界人類の悲劇を救う国だと自ら言って、高い理想と信仰を持って指導いたしましたけれども、なかなかそうはいきません。
日本の現状を見るに
日本が戦後この平和憲法を作りまして、軍人というものは絶対にないはずでありましたが、いまや又軍人は、昔の軍隊よりも多くなりました。
核兵器もやがて日本で製造するというようなことを言い出しております。
武力によって国を守るという、この考えがあれば、どうしても世界各国皆それぞれに国民を守るために軍備を競います。競えば結局は戦争になります。
このようなことで、日本も正に軍備によって再び戦争をしかねない姿になりました。それで平和の憲法が邪魔になりますから、憲法を改めようとしています。
戦争をするように憲法を変えて行こうとしております。
憲法を変えなくても、すでにもうここまで軍備を進めて来ましたが、さて戦争に踏み切るとなると、ちょっとやっぱり故障がありますから、それで憲法を変えて行こうとしております。
戦争の被害者は誰か
近代の戦争が沢山の人を殺します。戦争をしている軍人をことに殺すのでなく、戦いに関係のない一般の女・子供を殺すことが多くなりました。
朝鮮戦争はごく最近の戦争でありますが、殺されたものの八割までは、何の罪もない女・子供であります。
広島・長崎の悲劇を見ましても軍人が死んだのではなく、多くはみんな町の人が死んでおります。これからの戦争はすべて広島・長崎のような姿になってしまします。戦争をすればそうなります。それで、戦争をせないことが本当に国を守り、国を守る。財産を守る。国土を守る道であります。
けれどもこれがどうも、よその国を疑い、よその国を恐れると、平和でじっとしておれません。
やっぱりよその国から攻めて来たらどうするかと、そんな仮定を考え出しまして、それに対抗する準備を次々として行きます。
トルストイの平和論
近代、平和ということを言い出しましたのは、ソヴィエットのトルストイであります。
私の子供の折りにこの人はまだ生きており、やがて亡くなりましたが、子供の折この人の書いたものが時々日本に翻訳されて来ておりましたので見ますと、やはり何とかして世界平和を作らねばいかないといって、この人たちが主唱して平和会議というものを世界的に開会しました。
それでどこの国でもいろいろな関係があって軍備を全く捨てることは出来ないだろうといいます。これは現実みんな出来ない。
それで出来ないとなれば軍備競争になって、生半可な軍備ではいけないので、やはりその国が攻めてきたならば、これに勝つだけの軍備を持たねばならんということになって、軍備競争になります。
それでこの軍備はやむを得ないという中において、どこの国か敢然と軍備を廃止して、絶対戦争をせないという事を決議する国があったならば、それは世界人類への大きな恵み、恩恵だということを申しております。
この戦争を放棄する、そういう国があれば、人類は今それを見習うことが出来ます。
戦争を放棄するという国がこの世界に出現することを人類はまりこがれております。
でなければ人類は滅びてしまいます。私らは滅ぼされてしまいます。
それでこれを印度が失敗し、日本国も全然軍備は持たない。戦争はしないという憲法までは作りましたけれども、やはり成り立ちません。
日本国の使命を自覚して
このようにまごまごしていると、そのうち人類の運命が愈々一挙に決定するという時が来ます。
それは誰も人を滅ぼそうとすれば、今日自分も滅びねばなりません。この道理ははっきりしております。
それ故に人類はうっかり戦争は出来ない。そのうちに小さな個人の意見でなくして、国家という一つの形態を持った平和が、全然武装を放棄して、軍備を持たない、そうして戦争はどんなことがあってもしない。
それで国際的な問題の行きがかり上の紛争が起れば、それは根強く、根気よく話し合いで道理を立てて話し合おうという、こういう国が出来なければなりません。
その国に日本は失敗してしまったとはいっておれません。やはり日本はそういう国として、世界平和の指導国となって立たねばならない運命にあるようであります。
日本の優れた生活様式
このことで一つ良いことは、日本国民の大部分が仏教の信者ではないけれども、仏教の古い伝統を持っており、お仏壇の無い家はほとんどないといってもよいのであります。これは先祖から伝わりましたまことによい生活様式であります。
そのお仏壇、各家のお仏壇が又お寺というものに統一されて行きます。
寺の信者とか檀家とか、これが日本国は宗教はいろいろありますが、仏教においてほとんど異議なく統一されております。
この仏教の精神が現代本当にいかされるという時になりますれば、日本国程みんなの力を結束せしめて平和に立たしめ得る国は、他に無いようであります。
ガンディー翁を倒したヒンズーの教え
印度にしても、ガンディー翁が印度の中から非暴力というものを見い出して参りましたけれども、ヒンズー教の中にはやはり正しくないところがありますから、ガンディー翁を倒しました者もヒンズー教徒でありました。
仏教では極楽に行くとか、座禅をするという無理はありましても、仏教の教えに全然反対して行くことを喜ぶ宗派はありませんから、ここに仏教の本当の精神が現われますと、日本は世界平和の現代の要求を満たす国と思います。
平和憲法を何によって支えるか
日本は平和憲法を作りましても信念がない。これが宗教的な信念によって支えられておらなければ、三百代言が屁理屈をつけるように、やはりその場で憲法の条文を壊してかかります。壊さなくても平気でこれをくぐり抜けるようにします。くぐり抜け得ないときには大袈裟にこれを改めて行くというような手段をとります。皆これは平和憲法の有り難いことを信じないからこうなります。
聖徳太子の平和の憲法
平和憲法を世界で始めて作りましたのは日本であります。
聖徳太子が支那、今の中国から、法律制度を学ばれましたけれども、しかし聖徳太子は毅然として、憲法は僅か十七条の簡単なものでありましたけれども、「和を以て貴しと為す。」平和を第一条にうたい上げられております。世界のどこの国の憲法にもないことでありましょう。
聖徳太子の作りました憲法の第一条は「平和というものを作らねばならない。争いということをしてはいけない」ということであります。
けれどもそういう国家の大方針を作り上げるという上にはどのように導けばよいのかというので、第二条にこれをうけられまして「篤く三宝敬う」、三宝といえば当時はじめて日本に入った宗教でありますが、「仏法僧これなり」これを敬わねばいかない。
この仏法僧を敬うことが平和をつくるという上に大切な教えであるから、およそ人類は万国どこへ行っても生きて行く者はこれに従って行くものであり、この教えは古今変らぬ教えだから、これを信じて行かねばならない。
「篤く三宝を敬え、三宝とは仏法僧これなり」ここへ又私らは立ち帰らねばならない。
日本の国柄はこれで治まって来ます。
聖徳太子の作られた憲法は、今日まで武家がせいじをとってもほとんど、これを改める憲法は出来ておりません。何とか、かんとか政権を保つために、いろいろ形は変えますけれども、この聖徳太子の憲法を変えたり非難することは出来なかったのであります。
平和の国民性が平和憲法を守る
それは日本の国民がやはりこうした憲法を守り得るような、平和な民族であったからこそ、この憲法が出来て、これが守られたのであります。
私らはここに立ち帰り、現在の憲法も現代的の守りましょうが、遠く聖徳太子の昔に帰り、
平和よりほか国家の目的は無い、人類の目的は無い。
争いをしないことより他平和を作る道は無い。
争いの道具、平和の邪魔になるものは、こりは皆捨てねばならない。
こういうことから私らの信念は、平和を保って行くところの憲法を守って行きます。
これが宗教的信念になり、それで私らが、この娑婆世界をお浄土に変えて、死んでから三悪道に堕ちないように、永遠の生命の上に動かぬ信仰を持たねばならない。これより他に良い道はない。
仏教の教えに従って
人類の生きて行く道のみならず、一切の生きていく道は、平和に暮らすこと。これだけを仏法によって習い極めまして、仏教の教えによって習い極めて、現在の憲法を宗的な信念によって保たねばなりません。
南無妙法蓮華経と唱えてこの憲法を守ります。 合掌
台北 花市