王舎城日記(2)

三月六日、今朝は霊山参詣の前に水を飲んで道中の困難を克服せねばならない。水を飲んで出発した、昨日よりは足が軽い。
鳥けもの入乱れたる足跡の
虎より太き人の足跡

就中鹿の蹄の跡と虎の足あとゝが最分明に見える昨夜鹿は虎に喰はれたであろうか霊鷲山の直下が最も虎の足跡が多い。人の足跡が甚分明についておる、誰の足跡であろうかと想ふておる中に霊山の坂道に登りかゝると上から半裸体の道士が二人降りて来た。我等は朝の寒さにおびえて肌着を重ねておるのに此人等なかゝゝ元気そうである。寒くはないかと聞けば寒くは無いと答へた。霊鷲山に登つた人達で最近此人達の足跡を見ておつたわけである、勿論跣足である。佐藤師は地下足袋を内地から用意して来らず、孟買でインドの革草履を買ふて履いた、緒が切れたので一朝跣足で登つたはよかつたけれど底豆を踏出していたみを感ずる。又革草履をはく緒が切れておるので縛りつける。地下足袋を用意して来れば足の問題は無かつたのに。
帰つたのは九時半、昨日よりは早い往復五時間を要した。今日は御茶を頂くことにした。御茶の終る頃ナーランダ大学の梶山氏が見えた。今日は日曜で入浴に見えた。
インドに於ける仏教全滅の原因を検討した。何等の結論も出ない。インドに於て回教徒が仏教並にヒンヅー教を攻撃して暴力的破壊をやつた事は真実であるが、其中ヒンヅー教はなほ存在し仏教ひとり全滅してしまつた。回教の仏教破壊の第一目標は仏陀の経典の全滅であり次には僧伽の全滅であつた。三智の大塔や、クシナガラの仏舎利塔が残存したのは其攻撃目標としては弟三次的のものであつたと云はれる、それにしてもヒンズー教の方は四吠陀からウバニシャツド、バカバートギータに至る迄完全に保存されておる。サンスクリットの仏典は一部たりと雖インドに存在して居ない。回教の暴力的破壊だけではかくも完全に全滅を行ふことは出来ない。彼の秦の始皇帝の焚書にしてもなほ壁の中に残存したと云ふ例もある。此インドに於て幾度も結集された仏典が一部も存在しない事は奇怪である。たとひ僧伽に護法の人が無く放逸懈怠の者が充満したと。依法不依人の教訓ある仏法の中に於てどうしても此仏典が広いインドに一部も保存されなくなる所以があろうか。最近に梵本の仏典を二三インドにネパールやチベットから集めてきたことがあるだけでである。仏教僧侶としては十名に足らない。日本からも慈雲尊者の梵漢対照の本が出版されてインドに渡つたと云ふ事である。インドの仏教滅亡に関する限り満足な解答を為し得る者は一人も無い。仏教全滅に関しては深い秘密があるに違ひない。此秘密を白日の下に曝さなければインドに仏教復興は不可能である。此事はインド人に托しても到底不可能である。日本の仏教徒乃至セイロン、パルマ、タイ諸国の仏弟子が負ふ可き務である。

三月七日、今朝は軽快な歩調で霊鷲山に詣ることが出来た。飲食の功徳で此身がさゝへられておる。
鷲の山我も登れば日も昇る
今日は誰にも出会はない、只虎の往復した足跡だけ恐しく目につく。
しき島の春風通ふ鷲の山
虎伏す藪に花咲きにけり

ビハール州の首相から手紙が届いた、来十四日迄は暇が無い其已後に会見し度いと云ふ事であつた。十日には王舎城をたつはずになつておるから今後は見参に入る機会は無い。
満月か満月の前夜かで円かな月影が彼方霊山の方、毘畄羅山の山に出た、満天澄みきつて風もない、ひとりバルコニーに出て眺め入つておると此附近の学校の小供達二三十名を先生がつれてお参りした。

三月八日、午前三時半から目覚めた、霊山の参詣飛ぶが如くに軽快に覚えた。明星天子の光薄らぎ光顕、山頂に曙の色がはなやかになるにつけ脚下がはつきりする。
白々とあけゆく鷲の山路に
先づ眼につくは虎の足跡

大虎小虎の足跡がなまゝゝしく印されておる。チベットの信者六七名婦人づれが先行しておる、彼等はさすがに大雪山を踏破して来ただけに王舎城のジャングルや虎の足跡など無視しておるらしい。太鼓も撃たずに何の恐怖そうな顔もせないで歩行しておる。
今日は久し振りに筆硯に対して内地への消息を書く。
大方広仏華厳経第卅九離世間品に曰く
仏子菩薩摩訶薩十種の発大事有り何等をか十と為す、乃至、一切如来滅土の後に悉舎利を取て無量の塔を起て種々の妙宝を以て荘厳と為し一切の花一切の夢一切の香一切の塗香一切の末香一切の衣一切の葢一切の幢一切の幡を以て之を供養し諸仏の正法を守護せん、是を菩薩摩訶薩の第三の発大事と為す 又曰く
彼の諸の如来滅度の後に我当に悉舎利を取て塔廟を起て其塔の高広なること不可説の諸の世界と等しく
如来の像を造りて魏々高大なる事不可思議の(世界の如くし不可思議)却に於て衆の妙宝幢幡僧葢花香を以て之を供養し乃至、一念も休息の心を生ぜず衆生を教化し正法を受持し守護し賛嘆して亦一念も休息の心無かる可し是を菩薩摩訶薩の第八の発大事と為す
華厳経第四十六入法界品に曰く
或は舎利を分つを現じ、或は塔を起てゝ種々に彼の諸の如来を荘厳す等々
同第六十入法界品に曰く
或は法師と為りて仏法を讃嘆し譂思誦念し諸の福業を興し塔廟、諸の妙形像を造立して香花蔓以て恭敬し供養す等。
此外なほ以て仏舎利起塔供養の法門あり、華厳経は円満修多羅と称せらる純ら大乗菩薩の行法である。大乗菩薩行に仏滅後仏舎利を取つて起塔供養すべき旨を説く一香一花皆菩薩ならざるはなし。
大方広仏花厳経第十五如来光明覚品に曰く、
能く正法の鼓を撃つて声十方の国に需ひ無上道を得せしめ玉ふ自覚の法は是の如し
十方国土の衆生をして無上道に入る事を得せしめんが為には、我能正法の鼓を撃つ可きである、もし我能く正法の鼓を撃たば十方国土は其音声に由て大震動を生し此法鼓の音声を聞いて歓喜する者は皆悉く無上道に入る事を得ると云ふは釈迦牟尼世尊道場菩提樹下に於て始成正覚の砌自覚し給ひし処の大法輪である。我等もし本門の戒壇に立て能く正法の鼓を撃たば、其声十方国土に震ひ一切衆生をして無上道に入る事を得せしむべし。我自覚の法も亦此の如し。

三月八日は満月にてインドのお正月の祝ひが賑やかに温泉場も大勢の浴客である。ナーランダ研究所長が随身をつれて来訪された。花岡山の写真帳を贈呈した。「かゝる大事業は仏天の冥加無くしては出来ない」と感嘆された。
午後甲市から達声師が西域記を携行した。王舎城の研究は西域記と仏国記だけが権威である文献となつておる。インドには何の文献も無い。甲市の日本綿花の社員石川信士が三四名の日本人を案内して参詣された。石橋信士よりの書信新聞を届けらる。妙義山演習地接取解除の報導があつた。閣議決定を覆した民衆最初の勝利の烽火である。

三月九日、霊山参詣明星天子東天に輝き満月天子西山にうすづく、此間清涼の大気を振動せしめて三丁の法鼓霊山に登る。虎の足跡も今朝は少いやうである。西域記に載する霊鷲山の名花キヤニ花、黄金を溶かせし色、梅檀をさしのぐ香気今満山に咲き乱れた大輪牡丹の花の如くである、内地に送るよすがもかな。

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