刀兵劫抄(第3次世界大戦) その5
仏教広汎にして、八万四千の法蘊と称せらるる。それは到底、我々の機根には手に合わない。
そこで「仏大慈悲を起こして、妙法五字の袋の内に、此の珠を裏みて、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」た。
如来神力品の結要付属の大法門は、即ち是である。是を信ずるが故に、南無妙法蓮華経と唱えるものである。南無妙法蓮華経と唱えるものが、伝染病の流行を防ぐのに役に立つというものではない。南無妙法蓮華経は国際情勢が、いかに切迫しようとも、変化しようとも、その間に在って、百難を排して、不撓不屈、唯一途に平和の歓喜を内蔵して、第3次世界大戦に介入することなく、永世中立を守り徹さんと欲する、大思想の信念の表示である。
人間の社会に、絶対平和の生活を建設せんとしたる者は、個人としては、釈迦牟尼世尊をはじめとして、耶蘇もまた非武装の生活をした。
しかるに一国家として、絶対平和思想高く、軍備を全廃して、古代兵器の刀剣さえも、一口もなく放棄したるものは、世界万国の歴史にも、いまだかって、あらざるところである。
日本国は、その人類史上空前の、世界平和の最初の使徒として、軍備を全廃し、戦争を放棄した。しかも今日、忽然として、世界大戦乱の渦は、身近に巻き起こされた。絶対平和の悲願を達成せしめんがためには、諸の他の戦争する諸国家を恃んで、我が安全を保障さるべきものと想うてはいけない。
世界の大戦乱の闇の中に、非武装の日本は、絶対平和の光明を掲げねばならなぬ。戦争への誘惑があり、平和に対する重圧があって、いかにそれが困難であろうとも、人類の絶滅、文明の総破壊の禍の火を消さんがためには、枯れ草を負うて、しかも大火の中を往かねばならぬ。
法華経の見宝塔品に六難九易の法門が説かれてあるのは、即ち是である。日蓮大聖人の開目鈔に曰く、「宝塔品の六難九易是なり。我等程の小力の者、須弥山は投ぐとも、我等程の無通の者、乾草を負うて、劫火には焼けずとも、我等程の無知の者、恒沙の経経をば読み覚うとも、法華経は一句一偈も、末代に持ち難しと、説かるるは是なるべし」
(昭和二十五年八月)