刀兵劫抄(第3次世界大戦) その4
絶対中立ということは、戦争の惨禍、害毒に、こりごりして、いかなる意味の戦争にも介入しない、戦の相手にもならねば、戦争の相手をも持たぬということである。平和国家の本質上、絶対中立は当然の常識である。
いかなる時においても、交戦国に加担すれば、それは戦争に介入することになる、戦争に介入すれば、戦争國家であって平和国家ではない。
首相は中立論を空念仏と言い、現実と遊離しておるもので、一種の迷信と嘲弄した。日本の中立問題は、空架な問題ではなくして、厳然たる日本の意思表示であるにもかかわらず、中立論を唱えることは、現実と遊離しておるというのは、切迫した国際情勢下においては、中立論は成立し得ないという意味である。
成立不可能の議論を称して、空念仏と言うたものである。
「如説修行鈔」の現世安穏論は、但だ「天下万民一同に、南無妙法蓮華経と唱え奉る」という、簡単平易、通俗普遍な、宗教的一修行に帰結されておる。これは国際情勢にもかかわらず、外交常識にもかかわらない。唯一種の宗教的信条以外のものではない。これこそ正に空念仏の嘲りをこうむるであろうことは必然である。
第3次世界大戦をひき起こさんとしておる、共産主義者と言っても、民主主義者と言っても、その志向する所の内容は、しばらくおいて、共産主義、共産主義と日夜に唱えておる者は、共産主義者でないとは言えない。
民主主義、民主主義と、朝夕に口ずさんでおる者は、民主主義者ではないとは言えない。共産主義者と言っても、民主主義者と言っても、どちらも倶に言葉の相違であり、文字の相違である。
共産主義ということが、直ちに侵攻するものでもなければ、民主主義という言葉が、直ちに保障するものでもない。しかしながら、共産主義という言葉は、共産思想体系を内蔵する。民主主義という言葉にも、民主主義思想体系を内蔵する。
その両思想の相剋、摩擦が、中国の内戦ともなり、朝鮮半島の戦争ともなり、米ソ戦争ともなり、第3次世界大戦ともなる。両思想ともに、闘い取るという思想の根底に、その禍が潜む。
我々は日本のためにも、世界のためにも、戦争の禍根をはらむ思想を克服して、平和の歓喜を内蔵する思想を受持せねばならぬ。平和の歓喜を内蔵する世界第一の思想として、我々は釈迦牟尼仏の仏教を信受する。
( 昭和二十五年八月)