世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その3
次に「南京大虐殺は日本軍の蛮行であったとして、世界から糾弾されていますが、その南京城の一番乗りをしたのは、兵士ではなくて、日連系の僧侶であったのです。その勇敢な僧侶を輩出した僧団は、今日 平和運動の先端に立って活動していますが、その人達は、過去三十年間、戦争協力・戦争責任についての反省を語ったことがない。まさか坊さん方は虐殺に加担はしなかったでしょうが、虐殺の跡始末を行ったのはこの僧団であったということです」とある。
この日連系の僧侶、勇敢な僧侶の集団は、すなわち日本山妙法寺の僧侶の集団である。その人達は、過去三十年間、戦争協力・戦争責任についての反省を語る必要がないから語らなかった。
南京城の一番乗りをはしたけれども、それは直ちに戦争協力でもなく、戦争責任でもない。
南京の問題は、身口意三業の中では身業の問題であるが、日本山は戦争協力もしなければ、戦争責任を負うべき所以もない。
従って反省を語る必要がないという日本山の立場を、此処に判然させよう。
日本山が南京城の一番乗りをしたことを取り上げられてあるけれども、日本山が妙法五字の旗を押し立てて「南無妙法蓮華経」の御題目を撃鼓宣令したことは採り落として、どこにも書いていない。
日本山の面目は一番乗りではなく、南無妙法蓮華経の光明を射し出して無明煩悩の闇を照らすことであった。そこを取り違えたから、日本山に対する批判は全然当たらなかった。
日本山は南無妙法蓮華経の撃鼓宣令の功徳を、日蓮大聖人の金言の如く信ずるが故に、従軍中、或いは行軍しても、或いは戦場に在っても、勇猛に撃鼓宣令した。撃鼓宣令の御祈念を感謝する者は弾丸雨の如く降り注ぐ戦線の兵隊であり、これを悦ばなかった者は戦線の背後にいる指揮官連中であった。日本山は最後まで従軍する決心であったけれども、それが叶わず、中途から戦線を離れるべく追い帰えされた。
当時、部隊長の萩洲立平は私を面前に呼び出し、「戦争には軍隊の行動は秘密を守らねばならぬ、君ら日本山の従軍僧は到る処で南無妙法蓮華経を撃鼓宣令する。そのために我が軍の行動に不利を来す恐れがあるから、今後従軍を禁止する」と命令した。
私は激しいマラリア熱に冒されていた。病気静養のためにも戦線を離れるのが便宜だったかもしれぬ。一門の徒弟に扶けられて南京に帰った。
南京では日曜学校を開設して、中国の少年教育に着手した。その後、日本仏教教団の従軍僧が到着した。その中の日蓮宗の従軍布教師が孔子廟に来て「君らは何宗か」と問うた。
「日蓮宗」と答えた。「僧階は何か」「僧階はない」「日蓮宗管長の任命はあるか」
「ない」「文部省の推薦はあるか」「ない」「陸軍省の許可はあるか」「ない」
「それでは君らは日蓮宗の従軍布教師ではない」「我らは日本山妙法寺の徒弟だ」
「そんなものは日本の中従軍布教師の中にはない。日蓮宗の名をかたるニセ坊主だ」・・・
これで日本山妙法寺の正体があばかれ、特務機関に報告された。特務機関の一将校は、これを聞いて憤慨し、一夜、孔子廟に乱入して「こら売僧、よくも軍部をだましたな、成敗してやるぞ」と叫喚し、寝ていた僧侶を軍刀で切りつけた。僧侶は血まみれになって逃げ出し、かろうじて生命だけはた助かった。
生命はた助かったが、孔子廟は軍部によって追い払われた。追い出された僧侶は古林寺に移ったが、日本の従軍布教師らは軍命令をもって古林寺へ押しかけ、日本山僧侶の追放
擯出を命じた。古林寺を出るとすれば、何れかの寺院に身を寄せねばならぬ。しかしどの
寺院を尋ねえても、一様に拒絶される。一寺院住職は「これ諸仏諸経の怨敵、聖僧衆人の
讐敵なり。この邪教広く八荒に弘まり、周く十方に遍ず」の文を指して返答に代えた。
日本山の僧侶は終戦後直ちに市内の仏教寺院を訪問して親交を結び、日蓮聖人遺文録等
を贈呈していたのである。今はこの邪教が南京に充満しておる。日本山の一門は毎日、鶏鳴寺という古寺院の背後の岡に上って撃鼓宣令し、平和建設の御祈念を為した。この山の直ぐ下に南京新政府がある。日本山の撃鼓宣令の法音は、新政府には手に取るように聞こえたであろう。
御祈念の前後には鶏鳴寺に参って住持と談話した。
私は「毎日の御祈拒絶念のためにも此処は便宜がいいから、寺院内の一室をお借りしたい。せめて二天門の中にでも宿泊させて貰えぬか」と頼んだが、住持は気の毒げに拒絶した。これも日本軍の命令であった。
そのうち支那浪人と称する一類の人々の中に日本山を知る人があって、その浪人の周旋によって市中の一中国人の空屋を探してくれた。日本の軍部からは、食料その他一切援助がない。一門の者は葦の根を採って生命を継いだが、遂に私は栄養失調に陥って臥床する時間が多くなった。
やがて満州国の注支大使が南京に赴任した。この大使は昭和十五年、満州国新京に日本山が御仏舎利塔建立を発願した時の奉賛会員であった。その大使が南京政府の高官を誘って日本山の道場に参った。かくて昭和一九年、南京にも御仏舎利塔建立が発願された。
この建立に南京政府は賛成したが、日本軍部が反対して資材の供出を拒んだ。
やむ得ず、南京紫金山山麓にある革命烈士記念塔の頂上に、御仏舎利を奉安した。その奉安式にも、日本の軍部、布教師は一人も参詣しなかった。紅卍字会員等が集まった。
昭和二十年八月十五日、日本国降伏。当時私は、現在の北朝鮮金剛山に掛錫していた。金剛山の僧侶が一応日本へ帰ることをすすめたので、直ちに帰朝した。
南京には徒弟若干名が残留し、御仏舎利塔建立を発願して祈念していた。そこへ家主が帰ってきて「もし必要ならば、この家を日本山の道場に供養しよう」と言った。また別に蒋介石の参謀が訪ねて来て「君らは日本に帰らずに、永く南京に止住して、日本と中国との平和締結を援けてくれ」と言う。この参謀をよく見ると、どこかで会ったことがあるようなので、訊いてみると、「鶏鳴寺でお目にかかった、南京城の時、蒋介石は今後日本と親交を結ぶ日が来る。そのためには日本仏教の布教師を通ずることが好い。それで鶏鳴寺の僧侶の中に在って日本仏教の従軍僧と交際し、然るべき
僧を見出すようにと言う命を受けて、今まで鶏鳴寺の僧侶に化けて止住し、日本の従軍僧と交際してみた」と言った。
一応、紫金山の記念塔に御仏舎利は奉安したものの、市民の参詣には不便なので、別に南京市中に御仏舎利塔建立を発願していた。蒋介石は市中に宝塔建立を発願して御仏舎利は授与したが、台湾に渡る破目になって御仏舎利は返還された。・・・つづく