世界平和と仏教徒の戦争責任 その5

世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その5

「戦争責任を棚上げにしたまま教団仏教が語って来たのは「世界平和」でした。」
世界平和を語ることは、好いことである。世界平和は誰が語ってもよい。世界平和を語る資格のない教団というものもなければ、僧侶もない。
世界平和は一部の増上慢心の殊階級の独占論ではない。たとえ、
戦時中に責任者、特軍事協力者であっても、或いは戦争債務者であっても、現代に於いて世界平和を語るに何ら躊躇すべき所以はない。

日本山はたとえ戦争責任を棚上げにしても、また堂々と「世界平和」を語る。第三者からは或いは「日本山の恥知らず」と非難されるかもしれない。日本山は世界平和を語る
を以って、恥としない。
豪も臆する処なく、世界平和を語り、世界平和運動の先端に立つ。是が則ち日本山の勇猛心であり、日本山の精進力である。

世界平和を語ることは口業であり。平和運動を行なうことは身業である。身業口業である平和運動を行わんとする。その信念、決定は、意業である。
世界平和とは『法華経』の法門からいえば、如来寿量品の自我偈に説く所の、
我が此の土は安穏にして 天人常に充満せり 園林諸々の堂閣 種々の寶をもって
荘厳し、寶樹花果多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天鼓を撃って 常に諸々の伎楽を作し、曼荼羅華を雨らして 佛及び大衆に散ず。

である。
我此土は現代の世界の理想的青写真である。これを「娑婆即寂光」と天台大師は解釈し、日蓮大聖人もこれを「立正安国」と説かれた。この経文に、国土世間の荘厳と、衆生世間の遊楽とが挙げられてある。
『法華経』の信解品に、菩薩行の二項目が示されてある。その一は教化衆生であり。その一は浄仏国土である。菩薩行三祇百劫、ないし勤踰塵劫の菩薩行の成満の姿が、如来寿量品の自我偈の我此土安穏の経文でる。
日蓮大聖人は『開目鈔』に「一念三千の成仏に非れば、有名無実の成仏往生なり」ととかれた。
一念三千の成仏とは、その中に国土世間の成仏があり、衆生世間の成仏があり。五陰世間の成仏がある。
我が身の成仏は国土世間の成仏を離れ、衆生世間の成仏を離れてては成り立ち得ない。何となれば、
国土世間も衆生世間も、我が己心の一念三千の諸法なるが故である。
これが日本山の平和運動の原点である。
即ち平和運動の身口意三業の中の意業の信解である。日本山は衆生世間の成仏のために撃鼓宣令する。「衆生の遊楽する所 諸天天鼓を撃つ」という経文の現代における実現である。日本山は、国土世間の成仏のために宝塔を立て仏殿を建てる。「園林諸々の堂閣 種々の寶をもって荘厳する」という経文の娑婆世界の実現である。
日本山の平和運動は、迎合主義でもなく、無規定的で、無原則的法華経でもない。かくの如き『法華経』の解釈を、恣意的に仏教の解釈と非難する者が、果たしてこの外にいかなる仏教解釈を正当化することが出来ようか。
日本山が従軍中に「撃鼓宣令」した事を無視し、南京城一番乗りを大書して「戦争協力者」と罵り、戦時中に広供養舎利の経文の如く、いかに奔走したかは総て黙殺して、一言も触れていない。
日本山の生命線を押さえずして、外形皮相を見て、それで日本山を非難することは無理ではなかろうか。
第三者は疑うて謂うあろう。「もし日本山が定軌的に一貫した平和主義であるならば、何が故に一山の
青年僧を挙げて従軍僧とっして戦場に往来したか」と。然り
私は西天開教の一期の大仏事を中途半端にして、急いで日本に帰り、急いで戦場に駆けつけた。
その主旨は、前掲の丸山先生の「修羅の時代の宗教」と題する中に説かれてある。
歴史の転換期における宗教は、その時代を領導していくものだったと私は考えてきました。いま申し上げたような、いわばアクシデントをひとつひとつを乗り越えていかなくてはならない。いまからもこういうことはつぎつぎに起こってくるでしょう、それが現代という難しい時代の特質だと考えるべきだと思います。
そういう二重三重の困難を突破して行かない限り、民衆の宗教としての働きを顕すことはできないでありましょう。
宗教というものが、ひそやかに個人の心の中にあたためられ、そこに抱かれて救いを成就するという、そういう幸せな時代というのもあるでしょうが、しかし、現代のように、時代の修羅の様相を呈している激動の時代においては、個人の心の中におさまっているような、平穏な宗教からは大きなへだたりが生じてくるでしょう。そのような時代に宗教とかかわっていくことは、みずから修羅道に入って行かざるを得ない、修羅道を通過すること以外に、個人の安心もまたないだろうというのが、私の繰り返し申し上げてきたことであります。
右の先生の現代修羅道に分け入って、種々の困難を通過して、宗教の救済を説き、且つ行なうことが、実は日本山の行動であったとは、先生は思い召されないであろうか。
日本山はこの文章を拝読して驚いた。これは只事ではあるまい。先生にしてこの文章を認められたことは、忝くも高祖日蓮大聖人が先生の頭に入り替えらせ給い、日本山の正義を証明し給うた所以であろうと信じた。
南無妙法蓮華経

タイトルとURLをコピーしました