世界平和と仏教徒の戦争責任 (日本山への誤解を正す)大法輪 その1
当世流行の言葉に「世界平和」と言う言葉がある。日本山もそれに習って「世界平和」を語ってきた。然るに最近、『宗教の可能性』(現代人の宗教10)と題する本の寄贈を受けた。その中に丸山照雄先生の「現代と宗教的救済」と題する文章があった。
その第三項に「仏教教団と戦争責任」という一項目があり、のその中『平和を語れるか』という小見出しの下に、次のようなことを述べている。
戦争責任を棚上げにしたまま教団仏教が語って来たのは「世界平和」でした。
調子いいことは、人に先んじて口にしてみる。あるいは迎合してみる。そして具合の悪いことは口をぬぐって黙否する。すべての責任はどこかに棚上げしてしまう。いわゆる未清算の帳簿というものを闇から闇へ葬って行く。残念ながら、日本の仏教というものは、そういうやり方で今日まで生き延びてきたということができるであろうと思います。
次に『近代仏教史に見る戦争協力と平和運動』という小見出しの下では、戦後三十年を経過したいま・・・日本人が平和という時は、戦争の責務をどうするかということを抜きにしては、はなはだ説得力のない話になってしまう。現に平和という言葉の内実は空洞化していると思いますが、とりわけ仏教の平和運動は空疎なものとなった。
南京大虐殺は日本軍の蛮行であったとして、世界から糾弾されていますが、その南京城の一番乗りをしたのは、兵士ではなくて、日蓮系の僧侶であったのです。その勇敢な僧侶を輩出した僧団は、今日、平和運動の先頭に立って活動していましが、その人達は、過去三十年間、戦争協力戦争責任についての反省を語ったことがない。まさか坊さん方は虐殺に加担はしなかったでしょうが、虐殺の後始末を行なったのはこの僧団であった。
と言うことです。このことはそのままにすまされない問題をはらんでいます。
少なくとも虐殺の現場に居合わせたならば、いまこそその事実を事実として報告するくらいの業務は果たしていいのではないかと思うのです。
さらに次の『仏教人生論の流行』では、南京城一番乗りをするということと、平和運動を行なうことが、本人達にとっては同一次元の問題であるのかもしれないけれども、しかし、第三者から見れば一つのものとは、どうしても考えられない。もしそれを一つのものとして説明するならば、時代への迎合としかいいようがないでしょう。
無規定的で、無原則的で、恣意的な仏教解釈というものが流布していく。そういう時代状況というものは、きわめて危険な兆候です。鎌倉の祖師の生き方を見るまでもなく、仏教を時代に生かすということは、無軌道に時代に適応することでは絶対にないと云えましょう。とある。
次に第五項「変革の時代の宗教」の中、『修羅の時代の宗教』で曰く、現代のように、時代が修羅の様相を呈している激動の時代においては、個人の心の中に納まっているよな、平穏な宗教からは大きなへだたりが生じてくるでしょう。このような時代に宗教とかかわっていくことは、みずから修羅道を通過すること以外に、個人の安心もまたないだろう。
日本山が 仏教教団の中にあって、時に平和を説くけれども、甚だ説得力のない話になってしまい、
平和という言葉の内実は空洞化し、とりわけ仏教の平和運動が空疎なものとなったのは、私の愚鈍と老耋(ろうてつ)のせいかとばかり想うておったが、そればかりではない。「調子いいことは、人に先んじて口にしてみる。あるいは迎合してみる。そして具合の悪いことは口をぬぐって黙否する。
すべての責任はどこかに棚上げしてしまう。」た所以であると、丸山先生は呵責された。
そうだとすれば汗顔に堪えないというだけでは相済まぬ。過去三十年間、戦争に関する債務、戦争協力戦争責任を決済しないかぎり、平和を語る資格もなければ、平和運動をする分際でもないということになる。さて困った。
然るに「一つは昭和6年の満州事変から四十五年、もう一つは敗戦の時点から三十年の間に、日本の仏教は何をして来たのか、それを厳正に検討してみる必要がある。日本の仏教としては戦争責任の問題がある。
一には、宗教のイデオロギーをもって戦争を鼓吹した。
二には、中国大陸において民族宣撫工作。
三には、諜報謀略工作。
四には、東南アジアにおける軍事物資調達。
五には、東南アジアの宣撫工作等。
日本の仏教は直接的に戦争遂行のための活動をしてきた」というのが、丸山先生のいわゆる「日本仏教徒の戦争責任」である。
先生は「厳正に検討」した結果、日本山の門弟僧侶の中の但だの一度も、また但だの一項目でも、この戦争責任を負う者を見出されなかったと察せられる。戦争責任が日本山にないと決定すれば、日本山の平和論平和運動に対して、無反省、無軌道無原則、恣意的仏教解釈などと非難されるべき所以はなくなるだろう。
また先生の文章中に「戦責」という文字があるが、これが「戦争責任」と同義語であるならば、日本山はまた日本仏教戦責を負うべき筋もない。
然れども、戦時中、日本仏教各宗の従軍僧等が皆ことごとく件の戦争責任の五項を犯しおった。
それを指摘したものである。
日本山も日本仏教の一小部分の教団なるが故に、自然にその戦争責任を負うべきものであると言われるかもしれない。されども日本山としては、我其存在の使命に関することになるが故に、この種の戦争責任は断じて負わない。
利口げに聞こえるであろうけれども、日本の仏教教団が戦争責任を負うようなことをするがゆえに、日本山は別に戦争責任を負わないような独自の行動を採ったのである。・・・つづく
お師匠様とお母様