慈悲

慈悲
宗教的救済の対機となる者は、既に信仰に入った者ではない。又彼の寺院の壇越でもない。
今此三界の一切衆生であらねばならぬ。少なくも人間の社会そのものでなければならぬ。
就中(なかんずく)日々刻々端的に逼る人類の苦悩深き者である。涅槃行に曰く「譬えば父母に七子有らんに、父母の心は平等ならざるに非ざれども、而も病める子に於いて心則ち偏(ひとえ)に重し」応(まさに)に知るべし宗教の対機は、一切衆生の中に於いて、特に病有る子に心則ち偏(ひとえ)に重かるべき筈である。
病有る子と云うは、其の宗教の信者でもなく、又壇越でもない。街頭に往来しておる者、衣食を求めて苦労する者、悪業を作す者、邪見を宣(の)ぶる者、重労働に服する者、穢悪の生活に沈む者、犯罪の者、軽賎されし者、飢人、病人、無信仰者、反宗教者、闘争者、嗔る者、怨言多き者、世を呪う者、正法を誹謗する者、賢聖を罵詈(めり)する者等、挙げ来たれば五濁悪世の衆生の総てである。是等病める子の為に、慈悲の心偏(ひとえ)に重く其の病を治さねばならぬ。
(昭和二十一年)


若き日のお師匠様と行阿院様

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