我が身に法華経を読む
日蓮大聖人様は、個人としてどれ程幸福であったでしょうか。今日皆が帰依し同情する所は、自己の幸福を全く捨てて終われた姿であります。
竜の口の御法難も、伊豆の御法難も、佐渡の御法難も、小松原の御法難も、皆それであります。幸福ではありません。此れを喜ばれました。何故喜ぶか、此れ有るが為に、此の修行が出来た事が、我が身に法華経を読む事です。我が身に法華経を読むと云う事は、法華経を以て現代を救う事です。
現代を救う法華経の行者は、三類の強敵が有って、一代様々の困難を通さねばならない。本尊が堕落すると、南無妙法蓮華経が貪欲の道具に変化しました。一人一人で皆、貪欲は変わります。
私は金が欲しい、貴方は着物が欲しい、此れが何ぼ集まって見たって、人類救済だの、天下国家の救済になる筈はありません。立正安国論と云う宗旨の面影は、幸福製造の前には最早消えて終います。我が身の幸福を願う時、国家の何のと云ったって仕様がありません。
(昭和五十八年四月二十七日清澄山道場)