立正安国論の宝策

【松谷磐殿へ】 昭和六年六月九日
さきに百三十留比、今度五十円、倶に今度の道場創立の経費にあて奉る可く候、
併し今度は金銭の御供養は絶対に御断り申し上げ候。内地も格道場の経営未完成に候間、それぞれそちらへ御使用被下度候。
拙子は渡天以来約半歳数千里の旅行を致し候へども、費用として消費したる金額は猶百円には上がらぬことに候、況や道場も出来、信徒の外護もあるようになれば、たとへ信徒の外護なくとも拙子の生命は一日四、五銭もうあれば十分に支え申し候段確実に体験致候。
1ヶ年に二,三十円もあれば印度にての生命は安楽に候、少子一生何等の芸も無之候、但だ不思議として、乞食乃至乞食以下の生活を恥ずることも無く、結局楽しく思い候ことが、せめてもの手柄にて候、
金が多ければ煩ひのみありて、面白からず候。仏法の弘通は金には由らぬ事明了に信受仕候、
或いは旅費と申し、或いは本堂建立と申し、何と申し兎角に金を要する徒弟は、日本山には到底居住すべき人にては無之候、内地にて余裕の金のある人は飯なき人、宿なき人達に御供養され度候。日本山の命脈も乞食の続く間にて候。
―――――――中略―――――――
天地宇宙を自己の身体とし、心とし、相だとした絶対の真理より建立された正法なのであります。此の真理を自己の肉体の上に、社会の上に、国土の上に応用し活動せしむることを立正安国論の宝策と名付くるのであります。

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