立正安国論講讃

日蓮大聖人御降誕第七百年記念
「立正安国論講讃趣旨」―於大連王家屯
日蓮大聖人、我が大日本帝国にご降誕し給うてから、星霜漸く推移してまさに第七百年に征当する。受け難き人身をうけ、逢い難き仏法に逢い、持ち難き妙法を唱える、日蓮大聖人の御弟子、檀那とならん人々は、すべからく一乗の信心を決定して遥かに宿縁の深きを喜ぶとともに日蓮大聖人御降誕の意義を、信受し、光顕し、修行し、宣伝せねばならぬ。
七百年の乃往、大日本国東夷東条小湊の浦和の旃陀羅が家に、ご降誕ましませし父母生身の日蓮大聖人は、境を指せば閻浮提内、時を指せば末法悪世の、失神転倒の衆生済度の本願に牽かれて応現し給える、大慈大悲の止みがたき涙の雫である。
常無懈怠の汗の白玉である。凡そご一生の行相を承れば五濁の機根に応じ給える病行、嬰児行の御振る舞いである。もったいない次第である。法華経第二の巻の信解品には「希有にして無量無辺不可思議の大神通力まします。無漏無為にして諸法の王なり、能く下劣の為に斯の事を忍び給う、取相の凡夫に、宜に随って為に説き給う」と讃嘆してある。
七百年の乃往が、日蓮大聖人の始めではない。それから六十有一年のご生涯を経て六百四十年の乃往が日蓮大聖人の終わりではない。その始めをとえば、無量無辺百千万億阿僧祇劫の久遠の往昔で兜卒天上の弥勒菩薩も、その劫数歳時のきわまりなき長遠の程を譬うべき例も識らぬ、その終わりを尋ぬれば、無量無辺百千万億阿僧祇劫の未来際を尽くして所成の寿命未だ尽きず、常にここに住して法を説く、天上天下その劫数歳時のきわまりなき長遠の程を譬うべき例を識らぬ。
大日本国にもご降誕し給えば月支国にもご降誕し給う、南閻浮提にもご降誕し給えば北倶廬州にもご降誕し給う、海辺に誕生し、山中に誕生し、金星に誕生し、彗星に誕生し、虚空に誕生し、大地に誕生し、病床に誕生し、火葬場に誕生し、畜生に誕生し、外道に誕生し、地獄に誕生し、キリストに誕生し、汝に誕生し、我に誕生し、口に誕生し、眼に誕生し、誕生に誕生し、臨終に誕生し、畢竟して誕生し給わざる所もない。畢竟して誕生し給わざる時もない。誕生し給わざる時にも誕生し給う。
諸のあらゆる三世古今、十方世界の中にも外にもただ一人誕生し、百千万億乃至無量無辺に誕生し、同時に誕生し、異時に誕生し給う。天地法界森羅万象ただしこの日蓮大聖人のご誕生に趣いて、微塵の法だにもこの趣にすぎない。ああ、大いなるかな、大自在を極めたる日蓮大聖人のご誕生、この如き円融無碍の境界をば法身不思議のご誕生という。このご誕生を認識し、このご誕生を照見する者は、見思、塵沙の通惑を断じ、界外無明の別惑を一分断したる、十住十地の聖位を証得せる仏道の聖人にかぎる。
ユダャのエホバや、日本国の国祖や、此の如き等の、天上界や高天ヶ原やに留まりて山河大地、草木瓦礫を創造し製作したる、欲界下劣の主君をもって自ら称し、嫉妬、愛憎の煩悩に到りては、それを忍伏し、断尽する教法のありと言う噂だにも知らぬ神とでは、白雲万里、覚束無い話である。
凡夫の考案したる顕微鏡や望遠鏡やにも映って来ぬ、まして肉眼で見る事が出来ぬのは無論である。見ないから信じない、信じないから解からない、それに強いてわからせようとする所から話せば矛盾を感じ、示せば怪しみを生ずる。難信難解と申すのはこの事である。優曇華の時あって乃し一たび出るが如く、もし宿善厚き人は、たといいかなる見濁増の澆薄(ぎょうはく)(人情のうすい)
の世に生まれながらも日蓮大聖人のご降誕の法身難思の法門を聴いて、信受し歓喜し、賛嘆し供養する。
法身地のご降誕は如来秘密の所証である神通力の妙用である。衆生の機根の方からは分別して知る途はない。もし衆生の機根、次第に悪を捨てて善に還り、迷いを離れて悟りに至る者があれば、その修行せる善根力に相応してその心に信得しその心に認識せらるるように更に一段のご降誕の儀式を装い給う。これすなわち漢土、月支、一閻浮提の末代の一切衆生のために忝くも大日本国東海道安房国長狭郡小湊の浦和の日蓮大聖人のご降誕である。
日蓮大聖人のご降誕は、最勝無上の道徳善根、思想宗教がこの大日本国に実在するしるしである。
国土に威霊あって、日蓮大聖人の三大秘法建立の曼荼羅会となり、人間に機縁熟して日蓮大聖人の法華経色読の善知識となった。
富士の高嶺は日蓮大聖人のご降誕に相応したる準備である。蒙古の襲来は日蓮大聖人のご降誕を待たねば解決の道なき法門である。
もしも日蓮大聖人のご降誕を識らずに話も遠き浄土を勧むる宗旨があるならば、それは地獄に誘う手段である。日蓮大聖人のご降誕を識らずに仏性を見たという公案があるならば、それは天魔の允可(いんか)(許すこと)である。
日蓮大聖人のご降誕を識らずに国家を護る祈祷があるというならば、それは勢力が集まれる叛逆でも認めて諂いかねぬ邪法である。
日蓮大聖人のご降誕を識らずに社会がおだやかに道徳が行なわれるという学問があるならば、それは利口、追従、嘘八百の押し穴である。
日蓮大聖人のご降誕は当世日本国の中には議会召集よりさらに大事な問題である。遂には世界万国、人間、天上最大一の大事である。
かくの如き日蓮大聖人のご降誕は、釣瓶に落ちた天上の月影に過ぎぬ、指に染まった蒼溟海の泡沫である。天を仰がぬ者、海に入らぬ者には止むを得ぬ天上、大海の消息であり、影ではあるが天上の月をそのままに写しておるように七百年前の生身応現の、日蓮大聖人のご降誕の中に法身難思の神通、功徳が一として減りもせず、一として壊れもせずに全体婉然として収まっている。
生身の小湊のご降誕を離るれば、法身の法界のご降誕は全然衆生界に顕わるる途はない。
法身難思のご降誕によらずんば、かの小湊の浦のご降誕は、一匹の蛇が生まれたのや、一羽の鶏が生まれたのやと、その意義は相違はない。泥棒の誕生もキリストの誕生も、苦力の誕生もその功徳は大差がつかぬ。かくの如き見方では一切世間に光明のさすところを識るすべはない。
七百年の日蓮大聖人のご降誕が、すなわち法身不思議のご誕生の模様である。惜哉凡夫、飽くまで差別の妄情に封着せられて、生身と法身とのご誕生の円融無碍の相は信ずることすら出来ない。出来ない法門は差しずめ致し方がないとして、信ずることが出来、識ることが出来る、七百年前の生身の日蓮大聖人のご降誕の意義を誰が信受し、光顕し、修行し、宣伝すべきものか、大悲大慈と
と開けば、空虚なる言葉かと思い有難そうな概念かと思う、それは思う者の剛強暴慢の上から判じた僻見という者である。大悲大慈といえば精神修養の一標語かと思い、道徳規則の一方面かと思う、それは思う者の浅識短才の推測という者である。
大悲大慈といえば普天卒土の精霊である、無辺三際の核心である、仏心即是である。心をあらわした言葉というのではない。言葉に現れた心である。言葉に現れた手足である。日蓮大聖人のご降誕の意義である。
日蓮大聖人の皮肉骨髄である。立正安国論の諌暁である。念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊の折伏である。一切諸宗無得道髄地獄の根源なりという公断である。キリスト国賊、智恵亡国、法政天魔、主上髄獄の判決である。
インド不穏の消息である。ドイツ壊倒の天命である。一天四海皆帰妙法の弘道
である。南無妙法連華経の撃大法鼓である。南無妙法連華経の万灯行列である。
日本山妙法寺の七百年御降誕会である。立正安国論の講讃である。
大小総別順逆向背、教え来たれば無量無辺の品が分かれても、これが要領を提ぐれば、日蓮大聖人のご降誕の四方八面である。
我いま立正安国論を講讃せんと欲するがための故に、日蓮大聖人はご降誕し給うて、あたかも第七百年に春秋まわり来たったのである。
我いま立正安国論を講讃せんと欲するがための故に、大日本帝国は、皇帝陛下重病に罹り、百官宰相破廉恥を犯すという不祥の瑞相が現れて来たのである。
我いま立正安国論を講讃せんと欲するがための故に、イギリス、アメリカ、世界万国乃至一閻浮提内の一切衆生、各その国を呪い、その隣を呪い、その身を呪って混沌として業火の焔を焚いている。イスラエルのキリスト教の遍満はこの災害の根源となり、ロシアのレーニンの赤化宣伝はこの災害の枝葉なり、癩児伴を牽いて、怨憎排斥の花と散らし、殺戮惨虐の菓を結ぶ、天魔の眷属はこれを迎え、鬼神の余党はこれを喜ぶ。
日蓮大聖人はご降誕し給える不思議の因縁ある大日本国の中にも、一人のこれを糾明し、呵責し、駈遣する方を識れる者がない。悪と言う悪はことごとく興り、道と言う道は斉しく隠れる。善神聖人天上に上がり、山に遁れ、邪神、悪人、市町に顕われ、廟堂に立つ。
盛んなるものは闘争ばかり、はやるものは疾疫ばかりで現世さながら修羅道の真ん中にかわった。かくの如き時を指して五濁悪世とも、法滅尽時とも名ずくる。大集経のいわゆる闘諍堅固、白法隠没の当相はすなわち現在の世界の為体(体たらく)である。国と言う国、家と言う家、人と言う人にそれに立つ道を示して、躓く処を扶け、日本の仏法を光顕し、世界の闇冥を除滅し、真実際の万国平和、君臣安楽の策を建てんがために立正安国論を講讃する。
今上皇帝玉体安全、文武官僚徳政増益のために立正安国論を講讃する。
日蓮大聖人の第七百年のご降誕をよろこばんがために立正安国論を講讃する。
自ら転迷悔悟、即身成仏の大果報を求めて声も惜しまず南無妙法連華経と唱えんがために立正安国論を講讃する。
衆生をして無上道に入り速やかに佛身を成就することを得せしめんとて南無妙法連華経と唱えしめんがために立正安国論を講讃する。
南無妙法連華経
惟時大正第十龍集幸酉年陽歴二月十六日
亜細亜大陸南満州日本山妙法寺大講堂征当第七百年御降誕日蓮大聖人弟子
沙門 行勝 謹叙
(大正十年二月十六日)
「立正安国論講讃趣旨」

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