大体、世の中はみな不思議な世界であります。悪行が重なれば苦しみが現れ、善業の功徳を積めば仏様が現れ、自分も有難いお姿となります。ですから、すべての問題はわれわれの認識の上にあるのではなく、その奥の方に本質があり、本質の世界がある。それでわれわれもその身は有に非ずまた無に非ず、悪業の因縁によって喜びを受ける身が現れる。
今日、世界の人類がみな悩みますのは、唯物論によって人間の心の奥の世界が隠され、目に見えるもの、これだけを研究する様になったからです。形のあるものだけを考えていきます。その結果、およそ形のあるものは何もかも、小さいものから大きいものまで、ほとんど数え尽くしてみます。それがどうなるかと言うと、人間はやがて自ら滅びる運命になってしまいます。
それで滅びまいとすれば、その考え方を変えねばいけない。
物質的な世界だけを見ていれば、物質を集めたり飾ったりすることが人間の努力する仕事のようになります。今日の戦争はそこから起こります。戦争は物質的な争いであります。それを助けていくものは心の貪欲というものであります、それが戦争の道具になってしまいます。
人間も世の中も平和に治めようとするならば、まず貪欲・瞋恚・傲慢・愚痴・猜疑、これらの煩悩を調整していかねばならない。煩悩は誰にでもあるものですが、無制限に発展させてよいものと思い権利などと言っております。物質がなんぼあっても世の中は恐ろしい世界に転じていきます。
世の中を清らかにしようと思うならば、平和にしようと思うならば、まず物質の存在よりも、身体を養うよりも、さらに大切な問題があります。それは人の心を統制していく道であります。「欲しい」という貪欲の心がない人はありません。「腹が立つ」という、これもない人間はありません。
つまらんことを考えて愚痴も言わない人もありません。有るものを、これが災いに発展しないように自らも苦しむ。こういうところに貪欲・瞋恚・愚痴が走っていくのを止めていく。これは物質では止まらない。精神的な考え方、精神的な統制が必要であります。
貪欲の心が起こる。起こったら自らが抑えていく。この心が起こらねばなりません。瞋恚、腹が立ちます。腹が立つままに茶碗を投げてみたり、人を叩いてみても納まりません。腹が立つ心を抑える心が別にあります。貪・瞋・癡、人間の煩悩は昔も今も少しも変わりません。
それが世の中の災いをなしております。その災いを除くためには、この心を抑えるより仕方がありません。それが宗教の修行であります。