観心本尊鈔ー本尊を誤ってはいけない
昭和五二年十月一八日
ただ今拝みました御書は観心本尊鈔と申しますが、日蓮大聖人様御一代の御著述中でも、最も大事なものであります。その現本は千葉の中山の法華経時寺に残っております。
宗教は、全て簡単に提示しかすと「礼拝するものなり」という定義があります。西洋人が、そんなことを定義しました。明治時代と思いますが、東洋の宗教を少し調べました人が、「宗教とは、礼拝するものなり。拝むものなり。」と言われました。その拝むものは、目当てが要ります。こちらが拝みますと、拝まれるものが向こうにいるわけであります。その拝まれるものを表現しました。それが本尊であります。
仏教となれば、仏様として拝むことが間違いのないことであります。仏様の教え、そうして仏様の尊いことを信じまして拝みます。これが素直に素直に伝わりましたのが、このランカの仏教であります。マハボディーに詣りましても、それから、どこのお寺に詣りましても、お釈迦様を拝んでおります。これは間違いありません。仏教に違いない。
仏様は、拝むに価するという評価は、誰もこれは誤りだという者はありません。世界みんな、ことごとくお釈迦様を尊いものだと言います。これに異存することなく信じております。仏教徒であります我々はお釈迦様を本尊として礼拝します。これは間違いありません。
それがその、簡単にお釈迦様を拝んでおるとよかったんですが、大乗教というものが説かれまして、その中に、様々の仏様達や菩薩方が現れて来て。現れて来ても、それを拝まねばよかったのですけれども、それを拝むことにしました。拝むこともよろしいんですけれども、それを拝むために肝心のお釈迦様を忘れて捨ててしまいました。
例えば日本に伝わりました南無阿弥陀仏の浄土宗の一門の人々は、何処へ行っても阿弥陀堂がありますが、お釈迦様のお堂なんていうものは建てません。阿弥陀様は造立しますけれどもお釈迦様を造りません。書きもしません。お釈迦様を礼拝することを忘れまいた。朝晩あの阿弥陀様を礼拝します。
もう一つ日本で流行っております真言宗であります。これは随分迷いまして、密教というものは何か、仏教の発達した形式のように考えます。大日如来というものが出て来ると、これはお釈迦様よりも慈悲も深いし寿命も長い、功徳も広大だ。そうなりますと、その時には、お釈迦様を礼拝の対象とせずに大日如来を礼拝の対象にします。で、
お釈迦様はどんな位置になるかというと、お釈迦様は、悪く言うと、大日如来の牛飼いだという。草履取りという。こんなことを真言宗の御坊様が書きましたので、弘法ではありませんが、日蓮聖人が咎めなさった。どこのお経にそんなことがありますか。仏教徒というならば、お釈迦様を忘れることすらけしからんのに、それだけでなく、お釈迦様を出して来て大日如来の牛飼いだの、そんなことをいう。これが大乗仏教、日本の仏教の間違いであります。
で、阿弥陀様を拝むのと、大日如来を拝むのと、二つの御本尊が今度はお釈迦様の前に出て来ました。そちらもこちらも威勢がよくて、お釈迦様を拝む人はなくなりました。それが、大乗仏教の誤りであります。そこを日蓮大聖人様が折伏なさった。日蓮大聖人様が八宗をみなさって、「どれも仏様になれない、成道の道ではない」とおっしゃる。その根本は、お釈迦様を離れて色々な本尊を拝むから、それが悪いという。「諸宗みな本尊に迷えり」これは開目鈔にそう説いてあります。本尊を間違い、一度、大日如来に迷いますと「これはたいそう、大日如来は、お釈迦様以上に非常に功徳が具わっていて、どうも、広大な深い慈悲がある」などどと言い出してしまいます。
理屈を好むものは、それでもよろしい。ところが、拝むこちら側は凡夫であります。何のために拝むか、と言いますと、一番先に我等の心の中に浮かぶのは、欲であります。欲の為に拝みます。欲はどこから起こるか、というと、生活という問題が、誰にものしかかります。その為には、お米がいる。着物がいる、住居がいる、というようなこと。それを与えてくれるもの、それを拝む。それは悪いことではありません。
ところが、ご飯をいただいて、住居があれば、人間は欲がないとよかったのですけれども、沢山色々欲張りまして、賃金闘争という言葉があります。一生懸命争う。欲張った姿であります。
で、この欲張りが対象になるもの、欲張りを、欲心を、満足させてくれるもの、それを拝むようになります。これが創価学会の板曼荼羅であります。
お祖師様のお認めなさったものだと言うております。それは判りませんけれども、ともかくお祖師様もこの本尊も、幸福製造機と申します。拝めば幸福がさずかります。幸福とは何ですか。それは、お金が儲かること、病気が治ること、商売が繁盛する、子孫が繁盛する、それが欲であります。その為に拝む。それが近頃は、そんなことを創価学会が言い出しました。みんな欲面に迷いました。儲かる事ならば拝もうという。
で、その以前に、真言がやっぱり、大日如来は広大な功徳があるなんてことを言う。それはちょっとこちらには縁が薄い。金儲けになるために拝むような仏様・神様でなくっちゃいかんと言う。それならば、真言の不動様というのがあります。不動様を拝むとお金が儲かります。大乗仏教は、とんでもない間違いを犯しております。
元来、この娑婆世界の人間界の悩みは、欲心が根本になって、あらゆる間違いが起こります。泥棒もこれから起こります。様々な間違いがは、みな心の中に潜んでおるこの人間の欲心であります。これを統制して、清めて行くことが仏法であったものが、これに油をかけて、火をつけた。これが大乗仏教の間違いであります。それで、この本尊様を間違えてはいかない。
間違えなかった系統を、今この御妙判に引かれてあります。小乗教の仏様は、迦葉・阿難を両脇に置いて、これは、ランカの仏教などは、お寺へ行ってみますと、みなそうであります。お釈迦様の両脇が迦葉・阿難であります。その次に、権大乗となりますと、小乗教の時に出て来なかった文珠菩薩の、それから弥勒菩薩、そんなものが両脇にあります。お経がその人々を相手に説かれてあります。それが大乗教の入り口の権大乗教。次に法華経の中の迹門といいますが、序品から寿量品の前になるまで、それもお釈迦様が中心ではありますけれども、その脇に立っております。脇士と申しますその脇立は、文珠・普賢、こういう菩薩方が立っております。
法華経の序品から見ましても、やっぱりそんな菩薩方が顔を出します。それは間違いではありません。とにかく、お釈迦様を中心にして、お釈迦様のご説法の下に連なったお弟子方、これを脇におきました。そこまではよかった。
大日如来の、阿弥陀仏の、稲荷様の、そんなのが来てから、もはや仏教は収集のつかない邪道におちました。主人を失ってしまった。それで、本尊様はお釈迦様であります。お釈迦様がお経を説れた時に、様々のお弟子様が出てきます。その中で、この法華経の如来寿量品の説かれる時には、お釈迦様のお自我偈と申します、ご自身の性格を示されました。如来秘密神通之力、それが如来寿量品の始まり。それを説こうと言うのであります。で、如来寿量品を以て、本尊様と定めた時に、お釈迦様になります。
そのお釈迦様が、あなた方は、この釈迦牟尼世仏を、近頃ガヤで成道した仏だと思うているが、それには間違いだというのです。時間的に、無始の始め、始めなき始め、から仏様に成ったのです。その仏様が、衆生済度のために、今度も人間界に、また生まれて来た。けれども、人間界に生まれて来たけれども、当たり前の人間ではない。仏様が仏様の秘密神通之力を示すために現れて来た。その御釈迦様を祀らねばなりません。
その御釈迦様は、脇立が、その始めなき、時間的に始めなき始めから、教化してお弟子として育てた菩薩。それが上行・無辺行・浄行・安立行という四大菩薩。大地から湧いて出たと申します。地涌の菩薩であります。それを脇立にせねばなりません。その上行等の四菩薩を脇立にする御釈迦様、それが寿量品の仏様。
そうすると、今現存の御釈迦様はどうなるか、それを表現するために、久遠の昔から仏様になられたお釈迦様。それをお釈迦様というと、阿弥陀様に比べたり、大日如来に比べまあす。それらの一切の仏を総合し、一切の仏が久遠の昔のお釈迦様と、ここに現れたように、阿弥陀様とも、大日如来ともなって現れ、様々の気根に応じて、名前を変えて現れた。一切の衆生を救う宗教的な礼拝の対象となるものは、みなこれ、我が一つの遠い時間の中における衆生教化の姿に他ならない。それが寿量品の説であります。
名前を様々変えてあったが、どの宗教も、その久遠の昔に成道なさった如来寿量品の仏様。その一端・一面であります。
衆生の気根に応じて姿を示す。その時にはやはり、仕方がありません。子供が欲しいという人には、鬼子母神様という形をとって現れる。幸福や金が欲しいという人には、大黒様にもなるんです。けれども、金が欲しくて拝む、子供が欲しくて拝む、そういう仏様は、一つの気根に応じた救いの姿であった。如来の本来の神通・秘密力ではない。枝葉の仏様。例えば、天の月が様々の池に映っておる。同じ様な姿であります。そういうものだと説いてあります。
ところが、日蓮宗では、この釈迦・多宝の仏様を脇にして、南無妙法蓮華経を中心にしてあります。お曼荼羅様というものは、そういうものであります。
そこで、日蓮宗の学匠が、日蓮宗の御本尊は、法だ、南無妙法蓮華経という法だ、という解釈しました。けれども、観心本尊鈔を今拝んでみますと、本尊はみんな、仏様や菩薩方の姿でありました。法などではありません。法をもってますことは、あらゆる救いの本尊となるその本体は、お釈迦様でもいかねば、阿弥陀様でもいかない。総体的なものに考えますから、絶対的なもの、それを示すために、仏様の名ではなく、南無妙法蓮華経を以て示します。このお題目であります。
そんなら、お題目は法かというと、そうではありません。如来の秘密であります。如来なんです。無作三身の法宝を南無妙法蓮華経と言う、と御義口伝に説かれた。けれども、この本尊は、南無妙法蓮華経というから、人ではない、と考えることが学者の間にあります。最近の学匠で、戸頃重基という人が居りまして、金沢大学の教授をして亡くなりました。この人が、法本尊を唱えて、たくさんの書物を書きました。法本尊を主張し、私の所へも本を送って来て、これは、法本尊は、老師のご意見と相違します。といって送って来ました。私、それに対する意見を述べましたものがあります。「人」であります。
本尊鈔を拝んで見ますと、仏像が末法に始めて出現する。釈迦多宝の二仏を脇士とします。他の阿弥陀・大日等の仏様方、これは迹仏迹像として大地の上に立たせる。そう説いてあります。この本尊鈔、それと報恩鈔、これは今朝拝みました。この二つの御書に三大秘法の中の本尊様が細かに説かれてあります。
両方よく拝まねばならない。もう一つは日女御前御返事というのがあります。
御婦人でありましたけれども、お相手になっております。そこにご本尊様のことが説かれてあります。
南無妙法蓮華経は、「法」でありません。「人」であります。南無妙法蓮華経
昭和五二年十月一八日 スリランカ国スリーパーダ(仏足山)