佛陀
刀兵劫抄(第3次世界大戦) その1
南無妙法蓮華経 戦争の発端は、双方、勢力の均衡状態とか、一方的勢力の優位とかをもって、計画的に防止されるものではない。
先般の日・米英戦争にしても、勢力の不均衡な、しかも劣勢な日本から挑戦したというではないか。
日本の絶対中立論が、戦争防止の手段として、迷信であるというならば、民主主義優勢論も、また戦争防止の手段として迷信であることになろう。
人類の社会生活の平和は、人類の創世記、天地の開闢以来耽った夢であった。
暴力闘争の悪魔の呪詛に呼び覚まされて、ここに現実の社会生活は闘争の歴史であったといわれるまでに、浅ましき悲劇を演じきたった。
闘争哲学を平和哲学に置き換え、闘争手段を礼拝手段に置き換え、唯物論を唯心論に置き換えざる限りは、考え直す手段も、方法も、何処にも存在しない。
闘争を否定して、平和に転向せしめんがためには、利害損得の打算、現実的な世界情勢を跳躍して、絶対平和の世界は、いかにして建立されるべきかを指導せる、根本原理を探さねばならない。
絶対平和の社会生活を、天国といい、浄土という名目をもって、人類に啓示せしものが、すなわち宗教ではないか。
「然らば即ち三界は皆仏国なり、十方は悉く宝土なり」と変ずべきではないか。人類絶滅の大戦争も、人類安穩の社会平和も、闘争の信仰を、平和の信仰に考え直しさえすれば「当知是処、即是道場」である。
平和を闘争に考え直すことも、思想体系の指南であり、闘争を平和に考え直すことも、また思想体系の指南による。考え直すという以上、それは精神的問題であって、物質的問題ではない。
アメリカに物質が欠乏するから、戦争が起こるわけでもなく、ソ連に物が不足するから、戦争が起こるわけでもない。
物質生産が、豊富なれば豊富なるに比例して、余計に戦争準備に発展する。
平和も戦争も、物質生産の多少、有無によって決定せらるるものではない。
平和も戦争も、唯精神的発達に、自ら決定せらるるものである。
ソ米両国は、第二世界大戦の終局まで、死生・安危を倶にした連合国の盟友ではなかったが。共産主義と民主主義とは、その当時一丸となって、枢軸国と死活を争う、激しい戦争を交えたものであった。
幸いにして、彼らが戦勝した後までも、朝鮮を三八度線で両断することも、満州、台湾、樺太、琉球を奪取することも、共同してやったことであった。
それらの点においては、共産主義も、民主主義も、共同してやれるのに、第二世界大戦が終了して、世界の人間が、東西、等しく戦争否定、平和愛好に憧れておる今日に、今さら、ソ米両国がその奉ずる主義の相違によって、第3次世界大戦を起こさねばならない理由は何処にあるのか。
ソ米ともに、相互に、侵略戦争の責任を、相手国一方の負わせ、相互に、自分の方は平和愛好国であるといっておる。そんな各自の我田引水の理由は、如何様にもあれ、かの恐るべき第3次世界大戦の地獄の釜の蓋を、ソ米両国が競うて、開けつつあることにおいては疑いない。
世界の人類は、日に日にこの焼熱地獄の釜の中に投げ込まれつつある。
現実に立って、世界情勢を判断する時に、米ソの衝突、民主主義と共産主義との死闘、第3次世界大戦を避け得る希望は、暴力戦争を肯定する人々の誰の説明の中にも見い出されない。
民主主義と共産主義との両陣営とも、各自に自分免許の平和論を唱えておるだけのことであって、実際は双方ともに人類絶滅のための進軍をいそいでおる。仮にこの中、一方が勝利を得て、地球上唯一の文明を建設して、その政府組織を作ったとしても、それは共産主義か、または民主主義になったというだけで、それで人類の社会生活は、絶対の平和が到来するということは、だれも保証する者はない。
(昭和二十五年八月)