増長慢心を発することなかれ

【一閻浮提】  僧伽の社会生活

但行礼拝は威音王佛の末法の不軽菩薩の行規であるが、獅子吼鼓音王如来(諸法無行経の下巻)の末法の喜根菩薩もまた、懇ろに但行礼拝の功徳を称揚した。
諸の仏の滅度末法にも、仏法漸く濁乱して、白法隱没の時にあたっては大菩提心を発せる菩薩は必ず皆遍に但行礼拝を讃嘆し、修行し一切諸法無障礙の自在を得て正法の命脈を獲る。
世間の嘲り戒相の拘束にはかかわらない。
日蓮大聖人の御弟子と称する者は無戒の僧、名字の比丘であった。内心煩悩に纏われて人天の供養を受けるに堪えず。その身に才学なくして文盲に修行懈怠にして、しばしば放逸に春秋を過ごすがごとき者をもなおその御弟子として、高祖日蓮大聖人は、これを「祝着し給う」と仰せられた。出家の一期生は、但、髪を剃りては棄欲の相を現じ、袈裟をかけては解脱憧相の姿になろう。ただこればかりで「天魔も怖れを為すと見えたり」と仰せられた。ゆめゆめ自ら賤しむべきではない。
当世日本山の僧と称する者は、更に酷しき者があり、特に浅ましき者がある。その師も無智無行にして一期髪を剃り袈裟をかけただけの名字の比丘でしかない。徒弟となる者、何ぞ是より勝れて有智有行なるべき。
各各胸に手を置いて増長慢心を発することなかれ

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