開教ということは、大勢の力でやるものではありません。ただ一人から始まるのであります。日本の仏法、伝教大師も弘法大師も道元禅師も、いずれも中国で法を受け、あるいは習って、日本で教えを広められました。ただ日蓮大聖人の仏法のみが中国からも習わず、インドからも習っておりません。
仏滅後二千二百二十五年の間、一人も唱えずに、日蓮大聖人様お一人、初めて南無妙法蓮華経と唱えいだされました。この日本の仏法を海外に広めるのであります。日本の仏法を伝えるということは、彼の国の文化を開くこととなります。言い換えると、世界の人々の心を平和に導いて行くという大きな仕事であります。
皆様方も、己の生涯というものは自分で決めて行くものでありますが、尊い仕事をなさってください。臨終の時、振り返って見て、この娑婆で何をしてきたか、自ら考えねばならない時がまいります。どなたでも、尊いお仕事をなさろうと思えば、出来るはずであります。誰一人なさない時に、一人立って為せば出来る。
昨今、妙な世迷い言がうわさされております。それは一切衆生は劫尽きて大火に焼かるる直前、もはや人類は明日にも全滅するなどと言う噂が聞かれます。
そして、その噂が、みな自分たちの身に降りかかって来た災難のように、今日の人は考えております。
馬鹿げたことでありますが、今時はそういう時になりました。これを「われ一人のみ能く救護をなす」という仏様の誓願を信じまして、その教えを広め人類を救うという大きな仕事に、我が一生を捧げる。そして我がこの五尺の体でなして行く。
「衆生済度」ということは、それが人間の大きい喜びになります。人間を救うことであります。形のないこころの救いを施さねばなりません。これを仏様にお残しいただきました。と信じまして、衆生に伝えていきます。これが出家のお仕事であります。
(1974・4・20 吉野山にて)